他人の星

déraciné

孤独

 

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       ふいに


       飛び込んできて
 

       胸ぐらを つかんだ


       あの 風は
 

 

 

       本当は
 

       どこへ
 

       行きたかったのか

 

 

      

       ふいに
 

       舞い込んできて

 

       靴の下で 息絶えた
 

       あの 花びらは

 

 

 

       本当は
 

       どこで
 

       死にたかったのか

 

 

 

        「トゲ」 と 「輝き」は

 

       いつも 同時

 

       さびしさの なれのはて
 

      

 

       それが

   

       「かなしい」 ということだ と
 

       いつの間に 忘れたか

 

 

 

       永遠に


       夕陽の沈まない 国へ


       行けたなら

 

 

 

       すべての 現実は

 

       夢に

 

 

       すべての 夢は
 

       現実に

 

 

 

       変わって くれるのだろうか

 

       本当に

 

 

      

 

 

 

誘惑

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       花は たくらんでいる


       音も立てず

 

       身じろぎもせず

 

 

 

       花は きいている

 

       生きものの

 

       たしかな息吹

 

       鼓動の音を

 

 

 

       花は 誘っている

 

       花摘む人を

 

       道の奥へ

 

 

 

       自らの首を

 

       与えつつ

 

 

 

       花は 待っている

 

       囚われ人が 

 

       自由を探して

 

       迷い込んでくるのを

 

 

 

       逃さず

 

       まるごと

 

       喰らうために

 

 

 

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(4)

「遠く 離れて 地球に一人」

  

 よくいわれることですが、人間は神ではなく、万能ではありません。

 けれども、口でそう簡単に言うほど、この身にしみ入るほどにはわかっていないな、と、私自身、自分でもよく思うことがあります。

 

 人間の想像力にも、限界があり、物語の中で、あるいは現実の中で、どんな経験を、どれだけ重ねても、いつまでたっても分からない・変われないことがあって当然なのです。

  そうした意味でも、この物語で描かれているのは、間違いなく、私たちに関係する未来についての、最悪のシナリオだったのかもしれません。

 

 そして同時に、地球という、私たちの故郷の行く末をも、提示します。

 

 良くんは、こんなふうに言っています。


 「地球は今に、人間が住めなくなるんだ。その前に、さよならをするのさ」

 

 もしかしたら、メイツ星人が地球の気候風土を調査しに来たのは、メイツ星もまた、高度な文明を築いた結果として、大気汚染などがすすみ、もはや生命を育むことのできない星となってしまったために、何らかの解決策を探ろうとしてのことだったのかもしれません。

  

 

  そして、メイツ星人の死によって、彼が封じ込めていたムルチが蘇り、新マンに倒されたあとも、良くんは、穴を掘ることをやめようとはしません。

 

 良くんは、言います。

 

 「おじさんは、死んだんじゃないんだ。メイツ星に帰ったんだ。ぼくがメイツ星についたら、迎えてくれよ、きっとだよ」

 

 郷は、そんな彼を見ていて、こう言います。


 「彼は、地球にさよならが言いたいんだ」

 

 彼自身もひどい迫害を受け、また、この世界でたった一人、親愛の情を感じていた“おじさん”を殺されて(良くんの中では、決して死んではいないのです)しまうような地に、いったい誰が、とどまりたいと思うでしょうか。

 あるいは、誰か、彼に、地球を捨てるな、希望をもてと、言える人がいるでしょうか。

 

 いまや、彼の希望は、きっと隠されているはずの宇宙船を探し出し、それに乗って、地球を去り、メイツ星で、再び“おじさん”に会うこと、それだけなのです。

 

 

 私たちの社会は、いま、どうなっているのでしょう。

 

 相変わらず、リョウくんやメイツ星人が、迫害される社会のままではないのでしょうか。

 

 

 ウルトラマンも、セブンも、新マンも、ときに、自分が守ろうとした地球人の、欲深さや残酷さに、驚きあきれつつ、それでも使命感をもって、怪獣退治をする姿を、何度か見せています。

 

 その背中には、やるせなさと、切なさと、悲しみが漂っていました。

 

 もし、あのころのように、また、彼らに悲しい思いをさせているとしたら、いったいどうしたらいいのでしょうか。


 何しろ、彼らは、自分の命を賭してまで、私たちのために闘ってくれていたのですから。

  それだけでなく、優しきヒーローとして、私たちの心に、いつでも寄り添っていてくれたのですから。

 

 

                                  《おわり》

 

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(3)

物語の役割

 

 人間の本質への、冷徹なまなざしは、さらに、「日本人」にも向けられます。

 

 MATの伊吹隊長は、郷に、こう言います。


 「日本人は、美しい花をつくる手をもちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか」

 

 『帰ってきたウルトラマン』が放映されたのは、1971年のことです。

 戦争が、まだ、今日と昨日の境目にあった時代に、故国、日本の在り方と、そこへ属する一人の人間としての、峻烈な自戒の言葉だったのではないでしょうか。 

 

  青空を背景に、さっそうと立つウルトラマンのイメージに比べ、新マンは、夕陽が似合うウルトラマンだと感じます。第37話、ウルトラマン 夕陽に死す』の印象が強いせいかもしれません。

 

 「人間らしさ」、といった場合、私たちが思い浮かべる(思い浮かべたい)のは、「美しい花をつくる手」、たとえば、あたたかい思いやりなどの、利他的な性質の方でありがちだと思います。

 けれども、「一旦その手に刃を握ると、残忍きわまりない行為をする」のも、「人間らしさ」です。

 

 そのような、「人間らしさ」の暗い顔を見たことを、記憶にとどめまいとでもするかのように、経済成長まっしぐらだった社会にも、翳りが見えはじめ、これからどこへ向かえばよいのか、よりどころを見失いつつある時代だったのだと思います。

 

  メイツ星人が、再び星へ帰るときのために隠した宇宙船が、いくら探しても、いっこうにみつかる気配がない、という話は、まるで、人間やこの社会が、二度と、もといた場所(故郷)へ帰ることはできないと、暗に表現しているようにさえ感じるのです。

 

 

 そして、映像表現として、これほどまでに、見る者に媚びず、甘やかさず、こちらが覆ってしまおうとする目を、見開かせようとするようなプライドを感じさせる作品には、出会えなくなって久しいのではないでしょうか。

 

 

 故・高畑勲氏は、物語の重要な役割の一つとして、登場人物に感情移入して、挫折(期待が裏切られること)を疑似体験できることをあげています。

 現代の物語では、受け手が感情移入しやすい属性をもつ人物が、正しさや強みをもっていて(まるで“神”に撰ばれしもののように)、挫折知らずなので、安心してついていけてしまうことを、危惧していたのです。

 

 生きていくということは、信じていたものに裏切られたり、よりどころとしていたものが突然崩れたり、挫折の繰り返しでもあります。

 

 『怪獣使いと少年』の場合、たとえば、身寄りのない良くんに感情移入した場合には、こんなときには、きっと、良くんやメイツ星人に親切にしてあげる人間が出てきて当然だ、いじめたり迫害したり、まして、殺すなんてことはありえない、という気持ちが、見る者の中に、にじみ出てくることでしょう。

 

 ところが、事態は、最悪の結末を迎えるのです。

 

 それは、見る者を責め立てたり、貶めたりすることを意図しているわけではありません。

 

 物語というものは、ふだんの生活では見たり聞いたり、体験したりできないような、「人間」や「世界」についての、理解のしかたの幅を広げてくれます。

 

 私たちは、物語の世界を、自由に歩きまわり、ときには、登場人物と同じ心の痛みを味わったり、ひどい裏切りを感じたりすることで、知らず知らずのうちに、心に耐性をつけることができているのではないでしょうか。

 

 そして、現実の生活の中で、ひどく期待を裏切られ、傷つき落ち込むことはあっても、過剰反応を起こしたり、必要以上にその影響を広げたりせずに、自分の中で処理する方法をおしえてくれるのが、物語の役割でもあると思うのです。

 

 

                             《(4)へ つづく》 

 

                      

        

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(2)

混沌とした宇宙は、人間の中にある

 

 良くんは、自分の命の恩人であるだけでなく、親愛の情で結ばれたメイツ星人の“おじさん”と一緒に、メイツ星へ帰るために、毎日、河岸で穴を掘り、そこに埋まっているはずの宇宙船を、懸命に探すのです。

 

 すべての経緯と理由を知った郷(帰ってきたウルトラマン)は、宇宙船を探すのを一緒に手伝いますが、そこへ、MATなど当てにならないといって、近隣の人々が押しかけてきます。

 彼らは、郷の説得にも耳を貸さず、良くんを“秩序を乱す元凶、宇宙人”だと信じて連れ去ろうとします。そうして、メイツ星人は、良くんをかばおうと外へ出てきたところを、警官に撃たれて死んでしまうのです。

 

 がっくりと膝をつき、言葉にできない悔しさと怒りと悲しみに、うなだれて、地面を叩く郷………。

 


 人間は、信じたいものしか信じようとはしませんし、受け入れたいと思うことしか受け入れません。

 たとえそれが科学的な真実であろうと、疑いようのない事実であろうと、そんなことは関係がないのです。

 

 そうでなければ、中世ヨーロッパの魔女狩りをはじめ、歴史上の様々な大規模、小規模問わない虐殺は起こり得なかったでしょうし、たとえ遅すぎたとしても、人類は間違いに気づいているはずですから、今日では、そうした迫害はとっくになくなっているはずです。

 

 あるいは、群衆の中には、良くんが宇宙人でないのなら、迫害する必要などないのでは、と冷静になりかけた人もいたかもしれません。


 けれども、こわいのは、場の空気です。

 

 もしも、「やめよう」、と言ったら、今度は自分が、「宇宙人をかばうなんて、お前も宇宙人だな」と言われて、次は、自分が標的になるかもしれない、というおそれがあって、言えなかったのではないでしょうか。

 

 そして、言うべきことを言わなかったことで、取り返しのつかない事態になってしてしまったとき、人は、どうやって、後悔や罪の意識というこの上ない不快感を払拭するのでしょう?

 

 そんなことは、造作もないことです。

 

 あの場では、それしかなかった、それが正しいことだったと、気持ちの中で、無意識的に、正当化してしまうのです。

 

 

 人間は、思考や想像力ではたどりつくことのできない、未知のブラックボックスの部分をもっています。

 何かによって、強い不安を感じたときに、人間の集団はときにスケープゴート(贖罪のヤギ)を求めますが、それだけでは説明のつかないものがたくさんあります。

 

 理由も理屈も明らかでないのに、何ものかを「悪」、「自分たちに害をもたらすもの」と信じ込み、血祭りにあげたり、残忍な行為そのものの中に、ひりひりするような快感と喜びを感じることのある生きもの、それが人間です。

 

 もし、人間には、そんな得体の知れない怪物のような部分などあるわけがない、とするならば、たとえば“サイコパス”などというもっともらしい呼び名で、「特異」な人間と、自分を含む「ごくふつうの」人間を区別する必要もないはずです。

 

 何か、際立って「悪」だと感じるものに名前をつけ、カテゴライズするのは、自分の中には、そうしたおそろしい要素などあるわけがない、という怯えがあるからなのです。

 

 

                             《(3)へ つづく》

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(1)

 

 最近、テレビで、『帰ってきたウルトラマン』を模した某ビール会社のCMを見た……からというわけでもないのですが、久しぶりに見たい、と思ったのが、本作でした。

 

「昭和」の原風景

 長身で、すらりとしたウルトラマンに比して、“日本人体型”の新マン(帰ってきたウルトラマン)、宇宙からやってきた超人とともに地球を守るチームとして、今ひとつリーダーシップと結束力に欠けるMAT、ウルトラマンやセブンにくらべて物足りないと言われがちなストーリー。


 ですが、この新マンの中に、私にとって、いろいろな意味で、強く印象に残る話の一つがあります。

 

 それが、第33話『怪獣使いと少年』です。(11月の傑作群、ともいわれていますね)。

 

 ウルトラセブンなどにもよく出てくるのですが、戦後の高度経済成長を遂げる日本の姿が、工事の音や、巨大な建物と重機、そして、高速道路、煙突からもくもく立ちのぼる灰色の煙、汚れた川などに象徴されて、表現されています。


 その川の、廃墟のそばで、一人の少年が、一心不乱に穴を掘っているシーンから、話が始まっていきます。

 

 少年、良くんの家は、北海道江刺市で、炭鉱が栄えた時代には、家族と暮らしていたのですが、炭鉱閉鎖とともに、一家は離散、孤独と飢えでさまよううちに、怪獣ムルチに襲われ、命を失いかけたところを、メイツ星から、地球の気候風土を調査に来ていたメイツ星人に救われて、ともに暮らすようになります。

 

 けれども、ごくふつうの生活を営んでいる人々にとって、廃墟のそばで穴を掘って暮らす、身寄りのない少年は、「不気味な存在」でしかなく、宇宙人ではないかというあらぬ疑いをかけられ、彼は、過酷ないじめに遭っているのです。


 この“いじめ”の描写には、容赦がありません。

 

 学ランを着崩した“不良”少年たちは、良くんが掘っていた穴に彼を入れ、その上から泥水をかけたり、犬をけしかけたり(この犬はメイツ星人の怒りによって、爆死させられてしまうのですが)、せっかく炊いていたおかゆをひっくり返しておいて、それを拾いあげようとする彼の前で、米を踏みつぶす、という、今ではまず、お茶の間に届けられる映像作品としては不可能であろう、人間の残忍さを真っ直ぐに映します。

 

 良くんが、食パンを買いに、商店街へ来たときも、パン屋の母親は、「あとでいろいろ言われるのが嫌だから」帰ってほしいと言うのですが、娘の方は、「うちはパン屋」で、どんな人にでもパンを売るのが仕事だからというみごとな“プロ意識”でもって、少年にパンを売ります。

 

 そこだけが、唯一、ほっとする場面で、あとは終始、暗い、不吉な空気が漂い続けます。

 

 おきざりになった、何ものかをかえりみる、などということとはまったく無縁であるかのように、走り去る電車と、赤信号。

 

 良くんと、メイツ星人が住む廃墟にぶらさがった、揺れる、首つり縄の輪。

 

 あたり一帯、どんよりした灰色の景色と、降り止まない雨。

 

 

 そして、良くんと廃墟で暮らすメイツ星人「金山さん」に会ったMATの隊員、郷(=帰ってきたウルトラマン)は、彼の身体が、地球の汚れた空気に蝕まれ、その余命が幾ばくもないことを知るのです。

 

                             《(2)へ つづく》

『ジェイコブス・ラダー』(3)

「現実」ー夢と幻想の間に

 

 この物語は、ジェイコブが戦場で刺され、瀕死の重傷を負ってから、野戦病院に運ばれて、様々な治療を施されたのち、最期に力尽きて死ぬまでの間に見た、彼の夢、幻ということになるのでしょうか。

 

 ですが、夢や幻で片付けてしまうには、この物語は(おそらくは、それがつくり手側の意図していたところだったのかもしれませんが)、あまりにも生々しく、リアルに感じられます。

 

 ところで、私たちの思考や感情、あらゆる生命活動を司る「脳」は、夢や幻をつくり出す装置である、といわれています。

 その考え方が正しいとするのなら、私たちが“現実”だと思っているものには、すべて、疑問符がつきます。

 

 なぜなら、私たちが考えたり気がついたり理解したりできるのは、この「脳」によってであり、この「脳」の中に存在しないことについては、正しく考えたり判断したりすることはできないからです。

 

 そのあたりについては、様々な分野の研究者や学者、哲学者、芸術家と芸術作品によってすでに表現し尽くされた感がありますが、実際、私たちは、現実に起きたできごとや、他人の存在、記憶についてもすべて、それがほんものであり、正しいのだということを証明する術をもっていません。

 

 

 ところで、私は、映画を見ても、ほとんど日常生活にその影響が出なくなった今でも、『ジェイコブス・ラダー』を観たあと、数日間ほどは、時折、妙なひらめきにとらわれる瞬間がありました。

 

 もしかしたら、私の身体は、本当は、どこかで死にゆく過程の中にあって、意識もなく、体も動かない状態にあるのだけれども、生きて、ふつうに考えたり動いたりしている夢を見ているのではないのだろうか、それが、いまの「現実」というものなのではないだろうか………

 

 
 そのような不可思議な感覚には、特有の、ふわふわした浮遊感があって、心地良いのですが、残念なことに、一週間も経つ頃には、すっかり消えてしまいました。


 それというのも、脳は、現実と、そうでないものを混同し、判断や適応に支障が出ないよう、記憶を次から次へと上書きしてしまうのですから、当然といえば当然なのです。

 

 けれども、脳の中にあるブラックボックスか、あるいは、それ以外の何か別の可能性かはわかりませんが、人間が「現実」だけでは満足できないのはたしかであり、(このあたりについては、精神分析創始者フロイトも著書の中でふれていました)、だからこそ、私たちは、映画や小説、あるいは、たった一枚の絵画や、たった一曲の音楽の中に、様々な幻想の物語を思い描き、(あるいは、自らつくり出して)、その中に、半分ほど身を浸しながら、生きているのではないのでしょうか。

 

 

                                  《おわり》