他人の星

déraciné

「死に至る病」

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       スライドガラス にのせた

       からだの 上で

       メスが 光る

 

       つんとした

       消毒液のにおい は

       苦手 だけれど

 

       慢性的な 胸苦しさ

       それに

       どこか 奥深いところからくる

       この疼痛の 原因は

       いったい 何なのか

 

       すっ と ひとすじ

       切り込みを入れる

 

       ぽたぽた と

       血のしずくが

       流れ落ちる

 

       神経みたいに

       細い 線状のものを

       ひとつ ひとつ

       切って 取り出しては

       顕微鏡を のぞき込む

 

       この 夢が いけないのか

       この 希望が いけないのか

       この 期待が いけないのか

       この 欲望が いけないのか

 

       それらは みな

       とても 美しい 言葉だ

       力ある 善き 価値だ

 

       そのはずだ

       そのはず なのに

 

       もし 片方の手でも 足でも 目でも

       それが おまえをつまずかせるなら

       「切って捨てよ」

       両手 両足 両目 のままで

       永遠の火に 焼かれるよりも と

       神でさえ 言っている

 

       だから

       細い血管のなかに

       小さな細胞のなかに

       もし かすかでも

       夢や 希望

       期待や 欲望が

       みつかった なら

       メスで 切り取り

       捨ててしまえ

 

       すっ すっ と

       切り込みを入れる

 

       ぽたり ぽたり と

       血のしずくが

       流れ落ちる

 

       ああ 生きていたのだ

       と 思う

 

       そのうち

       からだじゅうに

       夢や 希望

       期待や 欲望が

       転移して

  

       やがて いつの日か

       すべて

       捨てなければならない

       時が 来る

 

       生きていること 自体が

       重篤な 病 であるかの ように

 

 

 

 

 

哀歌

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       もし

       ぼくが 壊れたら

       一度きりで いいから

 

       いや できれば 二度

       せめて 三度くらいは

       修理に 出してくれる かな

 

       それで

       四度目の 正直

       もし また 壊れたり

       きみを 困らせたり

       きみの 役に

       立てなくなったら

 

       そのとき は

       捨てちゃっても 

       いいから さ

 

       そうして

       さびしがりやの きみは

       きっと また

       新しい

       ぴっかぴかの いい子

       おむかえ するんだろうけど

 

       そのころ には

       ぼくは がらくたになって

       ほかの何かと まじりあっちゃって

       姿も 形も

       どこかへ行っちゃって

 

       ぼく自身

       もう ぼくって 何だったのか

       わからなくなって

 

       きっと

       きみの となりで

       みっともなく

       泣きわめいたり

 

       きみの みみもとで

       未練がましく

       うらみごとの

       二つも 三つも

       言ったりするだろう けど

 

       空音だと思って

       ゆるしてよ

 

       いや やっぱり せめて

       一秒の 何分の一 

       何十分の一

       何百分の一 で いいから

 

       ほんの少し だけでも

       思い出して くれないかな

       ぼくのこと

 

       それで

       なんとか

       気持ちを

       おさめるからさ

 

 

 

 

 

 

 

 

『バットマン ダークナイトライジング』(4)

満ち足りた「死」を死ぬのか 満たされない「生」を生きるのか

 

 『ダークナイトライジング』の最初の黒幕、ベインは、マスクをつけて絶えず薬を吸引しなければ地獄ほどの苦痛を免れ得ず、バットマンは、彼に、「起爆装置の場所を教えたら、死ぬことを許してやる」、と言います。


 同様に、ブルースもまた、地下牢獄「奈落」に監禁されたとき、ベインから、「ゴッサムが灰と化したら、死ぬことを許してやろう」、と言われているのです。

 

 「死ぬことを許す」。

 つまり、そのときまでは、「生きる苦しみをたっぷりと味わうがいい」、ということです。

 「死」に安らぎと救いをおぼえる者にとって、生きながらえることは、まさに、「地獄の苦しみ」でしかないのです。
 


 執事のアルフレッドは、バットマンに戻ろうとするブルースに、「もっと違った幸せを願っていた」、と言います。


 フィレンツェのカフェで、ふと向こうのテーブルを見ると、ブルースとその妻、子どもの姿が見える。そうして、お互いに声はかけない、そういう幸せです。

 

 ですが、私は、疑問に思うのです。


 幼い頃から、ほとんど親代わりのようにしてブルースを見てきたアルフレッドが願う幸せは、まさに、老婆心でもって願う、子どものごく普通の幸せ像です。


 自らにふさわしい相手をみつけ、結婚し、子どもを産み育てる。

 けれども、それが本当に、“幸せ”なのでしょうか。

 

 少なくとも、バットマンとして闘いを重ねてきたブルースは、そうした小市民的幸せになじむことができるのでしょうか。


 

 バットマンは、ブルースに、「臆病でない私」としての存在意義を与えましたが、同時に、「弱く在る私」、としてのブルースの存在意義を奪いました。
 そして、その闘いは、ブルース自身の、人間への基本的態度や信頼、死生観に関する潜在意識を、変えていったのではないでしょうか。

 

 悪は強く、執拗であり、深く人間に根ざしており、従って、この世に人間が存在する以上、根絶することはできないということを、いやというほど、心の内奥に刻み込んだ者は、もう二度と、何も知らなかった頃の楽園に戻ることはできないのではないかと、私は思うのです。

 

 カフェでも、レストランでも、野外キャンプ場でも、どこでもいいのですが、そこにいる家族たちは、たしかに、「幸せ」そうに見えます。

 

 けれども、私は、家庭というものは、一種の、日常的地獄ではないかと思っているのです。

 誰が、いったいいつの間にそれを、「幸福」と名付け、それを無上の「幸せ」だと思い込むように刷り込んだのだろう、と、不思議に思います。

 


 いずれにせよ、闘いを通して、バット・スーツの隙間から入り込んできた空気を通して、「何かを知ってしまった」ブルースが、今さら「知らぬ」ふりをして、小市民的幸福(不幸)の中に身を投じることができるとしたら、それは嘘偽りだとしか、私には思えないのです。


 暮れる陽の光を浴びて、“バット”で核爆弾を沖へ沖へと運んでいくバットマンの表情は、これまでになく満ち足りて、穏やかです。


 自らにふさわしい死に場所を得ること、使命を帯びた死を死んでいく充足感。


 生きることそれ自体が、過酷であるがゆえの苦しみを生きることもまた、それはそれで素晴らしいものでしょう。

 

 けれども、答えはそれだけではないような気がするのです。

 

 私たちは、自分にとって大切な人、身内、あるいはそれだけでなく、自ら感情移入した物語の中の人物にさえも、「生きていてほしい」と願わずにいられないほどの“さびしがりや”です。


 ひとり取り残されて生きる孤独は、どれほどおそろしいものでしょうか。

 考えただけでも、身震いするほどです。

 

 死はおそろしいものですし、私など、人の何倍もの臆病者ですから、その間際になればきっと間違いなく、いやだ、こわい、死にたくないと、みっともなく大騒ぎして、周囲にひどく迷惑をかけることでしょう。

 

 落ち着いて、穏やかに、自らの死に向き合うことなど、できないだろうと思います。

 

 だからこそ、せめて、物語を楽しんでいる間は、その世界に全く関係のない異邦人、赤の他人、旅行客として、静かに、その生死に向き合わせてほしいと願っているのです。

 

 

                                  《おわり》

『バットマン ダークナイトライジング』(3)

寄せては返す 波のように

 

 ところで、物語とは、大塚英志氏が様々な物語論をまとめたところによれば、基本的に、「行って」「帰ってくる」という構造を持っている、ということです。


 つまり、主人公が、ふとしたきっかけから、日常を離れた場所へおもむき、そこで様々な苦難や困難を乗り越え、何かを失ったり得たりして、もといた場所へ帰ってくる、という構造です。

 

 たとえば、『バットマン ダークナイトライジング』にあてはめてみると、前2作での闘いから、もといた場所へ戻り、何となくさえない生活を送っていたブルースが、再びバットマンとしての自分を強く望まれているのを感じて奮起し、自らの身体を鍛え上げて困難を克服し、結果としては、ゴッサム・シティを勝利へ導くわけです。

 

 この『ダークナイトライジング』の結末について、私は、「バットマンは、ゴッサム・シティを救うために命がけで闘い、死んだ」と解釈しました。


 けれども、ネットを見ると、劇中の様々な伏線や、最後の謎かけのようなヒント、いくつかの場面は、バットマンは死んだけれども、ブルースは生きていて、妻あるいは恋人となったセリーナとともにいるのを、アルフレッドによって確認されている、という結果だとしているものが多いようでした。

 

 ですが、もし本当に、この映画の結末が、その通りだとするならば、正直、私としては、残念な気がするのです。

 クリストファー・ノーラン監督作品の、私があまり好きではないところが、ここで出てしまったのかな、と思ったのです。


 つまり、主人公など、観客が感情移入していた側の人物に、たとえば「死」であるとか、困難から救われない状況で終わるのではなくて、必ず、いくつかの希望や、明るい結末で終わらせようとするところです。

 

 よくいえば、彼は、きちんと物語を閉じられる監督だといえるでしょう。


 ブルースが、日常から再び困難な闘いの場へおもむき、理解者を得て、生還する、という展開は、物語の構造をきちんと踏襲しているからです。

 

 けれども、私は、「行って」「帰ってこない」物語があってもよいと思っているのです。

 

 言い換えれば、表層的には、「行ったっきり」に見えて、別の意味では、主人公が、これ以上はないというほど、深い着地点に帰還する、という物語が好きなのです。

 

 ブルース/バットマンは、幼い頃に両親を失い、その間接的な原因となった(と信じ込んでいる)自らの臆病さと闘い、克服し、翼をもつバットマンとなりました。


 けれども、彼は、平生はもちろんのこと、大富豪の御曹司らしく、プレイボーイを装っているときでさえも、心底はしゃいでいるようには見えず、どこかで静かに絶望しているかのように見えます。


 バットマンの、黒いコスチューム(=死者を弔う喪服、ともとれます)に身を包み、“悪”と闘いながら、いったい彼は、何を感じ取っていたのでしょうか。

 

 

                            《(4)へ つづく》

 

 

 

 

 

 

『バットマン ダークナイトライジング』(2)

「どこへでも行けたのに」―引き継がれた闘い

 

 さて、傷心のブルースを慰めるように現れた、もう一人の女性が、ミランダ・テイト(実は、ラーズ・アル・グールの娘タリア・アル・グール)です。


 彼女は、ウェイン産業(ブルース)が計画を頓挫させた“慈善事業”に積極的で、プライベートでも恋人のような関係に発展し、ついには、ウェイン産業の会長の座に就きます。


 そして、もう一人、仮面をかぶり、「持たざる者からは決して奪わず、持てる者からは遠慮なく奪う」泥棒、キャットウーマン/セリーナが登場します。


 彼女は、ブルースの指紋を盗みとったり、ゴッサム・シティを破滅させようと企むベインにバットマンを引き渡したり、当初は、“油断ならない女”です。

 

 物語の前半において、ブルースにとって「味方」であり、一番の「理解者」であると思われたミランダが、実は黒幕だった、という展開は、ある意味、こうした物語の王道といえるでしょう。

 

 実は、ブルースとミランダの対立軸は、お互いの両親によって用意されたもので、ゴッサム・シティを守ろうとしたブルースの両親と、ゴッサム・シティを破滅させようとしたラーズ・アル・グールの対立が、その息子と娘に引き継がれたということになります。

 

 つまり、ブルースとミランダは、最初から、それぞれの“血”の呪縛による仇同士であるということが、観客に明かされなかった大きな秘密として、最後に暴露されるのです。

 

 そして、物語の後半において、ブルース/バットマンと行動を共にするようになり、互いの生き方への共感から、親愛の情さえ抱くようになる相手がセリーナ/キャットウーマンです。

 彼女は、バットマンから、バット・ポッドと「クリーン・スレート」を贈られ、ゴッサム・シティを去って、自らの過去を清算し、別の人間として行き直すこともできたのですが、闘いの場に戻り、バットマンにこう言います。

 

 「どこへでも行けたのに。あなたも、私も」

 

 

人間関係の稀薄化?

 

 

 優れた物語は、その余白の部分で、現実の世界や社会の一側面を、さりげなく、あざやかに切り取って見せてくれます。

 

 近年、地域近隣の結びつきや、家族関係などの人間関係が稀薄化している、といわれて久しいですが、さて、本当のところは、どうなのでしょうか。

 

 ほんの少し、外へ出かけただけでも、目に映るのは、人間と、人間関係だらけです。

 

 街を歩いていても、電車に乗っても、表面上は笑顔で、さも心から楽しそうにおしゃべりをしている人たちを見るにつけ、私の気持ちは、むしろ、翳ることの方が多いのです。

 

 もし、人知れず、心配ごとや悩み、胸につかえるような不安や悲しみを抱えているのに、“笑って”“楽しそうに”“しゃべらなければ”いけないのだとしたら……その心中は、どれほど苦しいだろう?どれだけ痛いだろう?

 

 そう思ってしまうのです。

 

 人間は、「個」になりたくても、「孤」でいるようであっても、決して、様々なつながりやしがらみや縁から、完全に自由になることはできません。

 

 家族、特に親の思いは、それがいかに真面目なものであるか、何も言わずとも子どもに伝わりやすく、子どもは、親の姿がそこにあろうがなかろうが、その思いに縛られて(一生涯を)生きていかざるを得ないのです。

 

 ブルースや、ミランダにしても、本当は、親の生き方や思いとは別の考えや感情をもって、まったく関係なく生きていってもよかったはずです。

 

 そうして、血縁につながれていないと思われるセリーナでさえも、自らがゴッサム・シティで果たしてきた役割と、たとえほんの少しの間でも、意志の通じ合いを感じたブルースをおいて去ることはできなかったのです。

 

 「個」になり、「孤」になって生きていきたくとも、実際には、目に見えない糸や縄、鎖にがんじがらめに絡めとられ、とらわれて生きていかざるを得ない私たちなのですから、「人間関係が稀薄化している現代」(これは憂慮すべき事態だ)、などと、たいした思慮もなしに軽々しく言うべきではないのではないかと、私は思うのです。

 

 

                             《(3)へ つづく》

 

 

 

 

 

 

『バットマン ダークナイトライジング』(1)

物語と生きる

 

 どちらかというと、暗い物語の方が好きです。

 どこかもの悲しいような、胸苦しさを感じたり、最終的に希望は残っても、それは、はるか遠くに針穴ほどの光が見え隠れするような、そういう映画の方を、よく見ます。

 

 現実の世界では、様々な出来事に付随して感じる喜怒哀楽を、素直に、ありのままに表現するのは難しいと感じます。

 人間関係や、状況、空気や雰囲気、利害関係、その後への影響、いろいろなものが足もとに絡みついていて、嬉しくなくても、楽しくなくても、『ダークナイト』のジョーカーのように、笑顔でいなければならないこともたくさんあります。

 『ダークナイト』の世界は、暗澹としているにもかかわらず、どこかなつかしいような、居心地の良さを感じたのは、そのためかもしれません。

 

 映画などの物語の世界は、現実の世界を離れて深呼吸できる場所であり、また、現実の世界よりもどこか“マシ”であったり、現実世界ではとても出会えないような「腹心の友」や、「理想の恋人」にも出会える場所だといえるでしょう。

 

 たとえば“ジョーカー”のように、映画の世界の中では極悪人であっても、どこかむかしからよく知っている友人のような好意やなつかしさを感じ、現実世界のどんな人間よりも親しみを感じることがあっても、少しも不思議ではないのだと思います。

 

 人間には、人間ではない生きものやもの、架空や想像上の人物を通してしか、癒しや救いが得られないこともあるのではないのでしょうか。

 

 誰もが、様々な意味での“物語”を欲するのは、そのためなのだと思うのです。

 

 日常のごく些細なできごとから人間関係、あるいは、自らについて語るときにも、それがまがりなりにも「物語」になっていると語る人も聞く人も安心し、そうなっていない場合には、不安や不満を感じるのではないでしょうか。

 

 ある意味、人間の、“困ったクセ”のようなものかもしれません。

 

 

 

影あるヒーロー

 

 私が、クリストファー・ノーラン監督のバットマン3部作を好きなのも、決して明るい話ではないからです。

 

 クリスチャン・ベール演じるブルース・ウェインは、大富豪の御曹司らしい上品な微笑こそ見せますが、満面の笑みを浮かべたことがありません。

 自分の臆病さのせいで、両親を殺された、ということが大きなトラウマになり、ブルースは、その後、「人はなぜ落ちると思う?這い上がるためだ」、という父の言葉を胸に刻み、生きていきます。

 彼は、せめてもの償いのように、その言葉どおりに生きようとし、そうなれない自分には、生きる価値を見いだせなかったのではないのでしょうか。


 彼が、父の息のかかったゴッサム・シティ(いわば、父そのもの)から離れるのは、悲しみや苦しみをもち、弱さを克服しようとしたときだけでした。
 それが、ラーズ・アル・グールのもとでの修行でした。

 そして彼は、コウモリ恐怖症を克服し、闇夜のコスチュームに身を包んで、バットマンになります。

 

 バットマンは、全身を黒で包んでいますが、黒は、死者を弔う“喪”の色です。

 

 ところが、ラーズ・アル・グールが、ゴッサム・シティを破滅させようとしているのを知り、これを阻止するために、もとは“師”であった彼を、崩れゆくモノレールの中におきざりにします。間接的には、バットマンが、彼を殺したことになります。(『ビギニング』)

 

 そうして、第2作目、ある意味異色の『ダークナイト』をはさみ、再びこの対立の構図が戻ってくるのが、第3作目の『ダークナイトライジング』です。

 

 ブルースは、足を引きずり、杖をついた姿で現れます。表情には、翳りと疲れが漂っています。

 長年彼に仕えた執事、アルフレッドは、どんなことになってもブルースを決して見捨てないと言いましたが、何かにとりつかれたように、“バットマン”に戻ろうとするブルースに不安とおそれ”―死の影―を感じて、出ていってしまうのです。


 身体だけでなく、精神的にも“満身創痍”、限界であり、もし再びバットマンとなって戦えば、“死”は目に見えていたのだと思います。

 幼なじみで、思いを寄せていたレイチェルは死に、アルフレッドは、レイチェルがデントを選んでいたこと、その手紙を燃やしたことを打ち明け、ブルースの失恋は決定的になります。


 ブルースは、広い屋敷に、とうとう、一人きりになってしまったのです。

 

                             《(2)へ つづく》

不穏

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       青空と 黒雲が

       せめぎ合い

       一刻 一刻

       姿を 変える

 

 

       葉が つま先立って

       落ちる音 さえ

       聞き逃すまいと

       きみは

       耳を そばだてる

 

 

       うずたかく 盛りあがった

       積乱雲が

       緊張が とけたように

       崩れていく

 

 

       空は 奇妙に明るく

       押し黙る

 

 

       きみは じりじりする

 

 

       嵐の予兆を

       寒気のように

       肌で 感じたのに

 

 

       遠雷が

       余韻のように

       うすれて

       消えていく

 

 

       ぼんやりとした 日没

 

 

       平穏より 不穏

       嵐に近い

       人の本体

 

 

       そぐわない

       似合わない

       日常を 脱ぎ捨てて

 

 

       戻りたくなるのは

       至極当然 なのに

 

 

       きみは

       激しい雨を 待っていた

       朝顔のように

       天を仰いで 放心する

 

 

       その横で

       ぼくは 

       閉じた本を また開いて

       黙って すまして

       読んでいる

 

 

       何も 感じない

       動じない

       ふりをして