他人の星

déraciné

限界戦場

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       大地が 深い口を開き

       赤い 血しぶきをあげれば

       残るものは 何もないと

       ほんとうは 誰もが 知っている

 

       なのに

       欲しがることを やめられないのは

       ぼくらが

       滑車の中の ねずみだから

 

       いつの間にか

       一人残らず 迷彩服を 着せられ

       人いきれする 雑踏の

       不快指数120% の

       ジャングルに 投げ込まれ

 

       つけねらい つけねらわれる

       ゲームに参戦 せざるをえない 

       哀れな 戦士たちは 

       欲しがることを 生きることと

       誤解し 錯覚する

 

       気配を消し 息を殺し

       記録を記憶ごと 抹消し

 

       与えられるのは

       ひどく甘く ひどく苦い

       ただ一滴の 水

 

       一度 口に入れようものなら

       胸 掻きむしるほど 欲しくなる       

       とも知らず

 

       欲しくて 欲しくて たまらない

       

       閉鎖病棟

       檻の中から

       この身も裂けよ と

       手を伸ばす

 

       ほんとうは

       何を望み

       何を欲していたか など 

       遠い 忘却の彼方

 

       群衆のジャングルの 中の

       閉鎖病棟の 中の

       滑車の 中の

       哀れなねずみは

 

       いつしか

       滑車を回す 力も尽きて

       群衆の 足の下に 踏みつぶされ

       閉鎖病棟の片隅で

       枯れて 小さくなって

       誰にも 知られず

       息絶える

 

       ああ せめて

       あの 遠い 憧れの日

       胸焦がし 燃えていた

       本気で 愛した あの焔に

       ぼくの 亡きがらを

       投げ込んでは くれぬだろうか

 

 

 

 

 

 

 

『沈黙―サイレンス―』映画と、原作の両方から (10)

 

 

 さて、本題からだいぶ逸れてしまいましたが、話を『沈黙』へ戻します。

 

 苦難に満ちた旅路をたどり、布教活動をし、村の人たちに救いと赦しを与える役目を果たしていたロドリゴ神父は、もし神が存在しないのならば、自分の半生は滑稽であるし、殉教した信徒の人生もまた滑稽であることになると、捕らえられた牢の中で思います。

  たとえ神父といえども、もし、自分の信仰とそれによる行いが「無意味」であり「無目的」である、としたなら、「滑稽」でしかない、と思うほどに、彼は「あまりに人間的」であるのです。

 

 一方で、何度も同志を“裏切り”、自分だけ逃げ出し、殉教しきれなかったキチジローは、弱い自分がなぜこんな迫害の時代に生まれたかをのろいます。

 

 ですが、ロドリゴや、キチジローの悩み苦しみは、彼らだけの、特別なものなのでしょうか。 

 

 

 人間の社会は、時間や労力を節約できる方向へと、“便利”で“効率的”だと感じる方へと、おのずと発展していきます。

 

 それはたとえば、交通機関の発達や、どうしても生活を営むために行わなくてはならない家事や仕事などの効率化に表れているといえるでしょう。

 

 しかも、そうした発展なり変化は、熟慮の末に起こされるのではなく、その影響について考慮することもなく、ただただ、「できるのだから、やる方が良いに決まっている」、とでもいわんばかりにすすめられていきます。

 

 

 では、人類は、その発達を、どこで止めるのでしょうか?

 まだまだ進めるかもしれないレールを、先へ先へと敷き詰めていくことを、どこで止めることができるのでしょうか?

 

 おそらく、人間の特性上、それは不可能なのです。

 

 

 夏目漱石は、小説の中の人物にこんなふうに語らせています。

 

「世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」

                      夏目漱石三四郎

 

  「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。………どこまで行っても休ませてくれない。どこまでつれて行かれるか分からない。実におそろしい。」

 

                      夏目漱石『行人』

 

 

 いざ、その発展なり進化がおとずれたとき、人間社会や人間個々人に、いくら深刻な影響がもたらされようと、“そんなことは知ったこっちゃない”、なのです。

 

 人間は、中途半端に将来の不安こそ感じても、正確に未来を予知できる能力は持ち合わせていません。

 

 

 実は、ものごとがどんどん効率化され、ムダが省かれるようになっていけばいくほど、人間にとっては、自分のしていることや、生きていることの意味への疑いとおそれ―たとえばロドリゴ神父のような―と、あるいは、時代や社会に適応できない生きづらさ―キチジローのような―が、生じてくるのです。

 

 かくのごとくして、発展してきた人間社会というものは、必然的に「張り子の虎」であって、見かけだけはいかにも近代的で強固に見えて、その実、ひどく脆弱な土台しかもっていないことになります。

 

 その中で生きていく私たちの「生存の苦痛」は、生活や交通がいくら便利になったところでマシになるどころか、より酷くなる一方です。

 

 それもそのはずです。

 「時間のムダ」、「労力のムダ」、と言って、削っていったものの中に、時間をかけて、汗水垂らして何かをやる、という、生々しく、とてもわかりやすい充実感があったのですから。

 そして、それが、人間ゆえの、「何もせず、何の役にも立たずにただ生きている」ことへの罪悪感を消すことにも、何役も買っていたのです。

 

 ゴミだと思って棄てちゃったら、はたして、その中に、とても小さいけれど、宝石やら金が含まれていた、という感じでしょうか。

 

 

 かくして、われわれの足もとはおぼつかず、ぐらぐらで、不安は強まり、このまま生きていくのだったら、「死ぬか、狂うか、宗教か」、になるわけです。(死んだら、根こそぎ生はなくなりますが)。

 

 言ってみれば、私たちは、ロドリゴ神父やキチジローが感じていた「生存の不安」を、「自分一人に集めて、そのまた不安を一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」(『行人』長野一郎の言葉)とさえいってもよいのではないかと思います。

 

 

 あるいは―。

 

 

 甚だしい「生存の苦痛」に耐え、死ぬほどおそろしい「死」を回避しようとするために、われわれはみな、死にものぐるいになって、何かに「クルッテ」いようとするのかもしれません。

 

 「クルッテ」いることを、今さら、悪だとか、病気だとか、闇だとか言っても、何もはじまりません。

 

 それだけ、現代の「生存の苦痛」は辛く、「死」は、ますますの恐怖感をもって、私たちに迫ってきているということ、それが、私たちの現実だということを、如実に示しているのだと、私は思うのです。

 

 

                                 《おわり》

 

『沈黙―サイレンス―』映画と、原作の両方から (9)

「死ぬか、狂うか、宗教か」

 

 ところで、夏目漱石は、後期三部作の一つである『行人』の主人公、長野一郎に、こんな言葉を言わせています。

 

 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

                      『行人』 塵労 三十九

 

 私は、夏目漱石の作品の中では、この『行人』がもっとも好きです。

 その理由として大きいのは、時折この胸に感じる、どう説明したらよいのかわからない痛み苦しみを、「長野一郎」ならきっと知っている、と感じるからだと思います。

 

 おそらく、一郎がなぜ、家族のことも、妻のことも、誰のことも疑い、何も信じられずにいつまでもしつこく苦しんでいるのか、(少なくとも作中においては)、友人である「Hさん」をのぞいて、さっぱり理解できないのです。

 

 そう意固地になって疑うのをやめて、「信じて」楽になればいいのにと、周囲はすすめますが、一郎には、その「信じる」ということができません。

 なぜなら彼は、「神でも仏でも何でも自分以外に権威のあるものを建立するのが嫌い」だからなのです。

 つまり、一郎にとって、「信じる」とは、せっかく見える目に目隠しをされ、聞こえる耳をふさがれることと同じだからなのでしょう。

 

 つまり彼は、自分自身に対して、ひどく誠実なのです。

 

 自分の五感を駆使し、よく調べた上で、自分でとことん「考え、これは本当だと心底納得できたもの以外、彼には、受け容れることはできないのです。

 

 ところが、よく調べれば調べるほど、そんなものなどこの世のどこにもないことしかはっきりしないのですから、彼の不安や苦痛は、おさまるどころか、ひどくなる一方なのです。

 

 一郎の知己である「Hさん」は、こう言います。

 

 「私は能く知っていました。考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍り叫んでいる事を知っていました。」

 

 苦しみから救われたいあまり、神や宗教に頼ることを、誰が責められるでしょうか。

一郎自身もまた、できることなら、終わりのないこの苦しみから、救われたいと願っていたはずです。

 けれども、彼は、自分が、死にきれないことも、宗教に入れないことも自分でわかっていました。

 そうして、現在の自分は、正気なのだろうか、もう既にどうにかなってしまっているのではないかとおそれるのです。

 

 

 私は、一郎のそうした心性とは、まったく相容れないであろう、ある人の話を聞いたことがあります。

 それは、あるクリスチャンの話でした。

 その人は、母親を亡くしたばかりにもかかわらず、涙一つ落とさず、「悲しくない」と言ったそうなのです。

 「母は、神のご意志で、神のそばへ行ったのだから、悲しくありません。また会えますから」と言ったらしいのです。


 私は、少なからず、ショックを受けました。

 

 神だの、宗教だのというものは、人間の、自然な感情までも、そんなに強烈にゆがめ、押しとどめてしまう力をもっているのか、と驚いてしまったのです。

 だからといって、それを悪いとは言えません。

 日常を生きることは、ただでさえ、苦しみや煩わしさに満ちています。

 ですから、「信じる」ことで、大切な人を喪った苦しみが軽くなるのなら、それはそれでいいのだと思います。

 

 私自身もまた、自分の未来がどうであるかはわかりません。

 

 苦しみから解放されたくて、宗教に入ることがないとは、言い切れません。

 

 けれども、現在の時点では、そのような話をきくと、気持ちのどこかに、はっきりしない「疑い」のようなものがわいてくるのを、無視することができないのです。

 

                           

                            《(10)へ つづく》

 

 

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (8)

“神”は存在するのか?

 

 さて、幼年から思春期までの成長期を、何となく、キリスト教信仰の空気のなかですごしてきた私は、大学へ進んだ頃までは、神の存在を、“何となく”信じていたように思います。

 

 たとえば、友人との間で、自殺についての話題が出たとき、私は、偉そうにも、「自殺はいけない」、と言ったのです。

 「それはなぜ?」と、友人はきいてきました。

 私は、「命は、自分だけのものではないから」、と答えました。

 「じゃあ、誰のもの?」ときく友人に、私は、「神さまのもの」だと答えたのです。

 

 ずいぶんと、もののわかったような口の利き方をしたものだな、と思います。

 もしいま、若い頃の私のような人と出会ったなら、おそらく私は、友だちになれなかった気がします。

 

 

 ところが、いつの頃からでしょうか。

 私は、神の存在を、疑うようになりました。

  

 

 『沈黙』において、ロドリゴ神父は、多くの信者たちが信仰を守りぬき、惨殺されていくのに、それでも何もしない神に、疑いを抱くようになっていきます。

 

 「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。」

                            遠藤周作『沈黙』

                        

 

 そうして、ロドリゴ神父は、すぐそばで穴吊りにされて苦しんでいる信者たちを救うために、「一番辛い大きな愛の行為」をするのだと、フェレイラに説得され、「この世で最も美しいもの」と信じてきたキリストの顔を踏むのです。

 

 そのとき、彼の中のキリストは、ロドリゴへ向かって、こう言います。

 

 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」

 

 

 つまり、神は、何らかの形で都合よく事態を収拾したり、奇跡を起こして見せたりこそしないけれども、いつも苦しむ者の傍らにいて、ともに苦しんでいる、ということになるのでしょう。

 

 私が中学生か、高校生の頃、宗教の時間に、似たような話を聞いたことがあります。


 悩み苦しみつつ、生きてきた道をふり返れば、自分一人だけの足跡しかなく、それを、なぜ、自分の傍をともに歩んでいてはくれなかったのかと、神に問うと、神は、こう応えたというのです。


 あなたが苦しんでいたとき、私は、あなたを背負って歩いていたのだ、と。

 

 実に、感動的な話です。


 けれども、私は、“それはずるい”、と思いました。


 神の沈黙の理由を、その信仰ゆえに、どうしても正当化したい心の動きによって発明されたつくり話にすぎないではないか、と思ったのです。
 この手の発明や想像、あるいは“妄想”は、確証を得る手段がないために、本当だと証明することもできなければ、本当でないと反証することもできないからです。

 

 考えてみれば、すべてのあらゆる宗教心、神の存在は、みな、そうなのです。


 もちろん、すべてを疑い、疑い尽くしたせいで、かえって、真実を殺してしまうことも、当然あるでしょう。


 けれども、どんなに信じても、どんなに疑っても、答えや真実にたどりつけないのが、こうした類の問いなのだと思います。

 

 神の存在しかり、死後の世界しかり、魂の世界しかり、あるいは、私たちが生きているということさえ、しかりです。

 

 何も確かなものがないのに、こんな曖昧で、あまりにも不安で不安定な浮遊状態で、よくも生きていられるものだと、私は時々、ひどく不思議に思うことがあります。

 

 思いどおりにならない感情が、乱暴に、自分を引きずり回していく。

 その苦しさとおそろしさは、真実であり、死をおそろしいと思う気持ちもまた、同様です。

 

 たとえば、誰かが、その苦しみやおそろしさこそ、ほかでもない、キミが生きているあかしだよ、と言われても、私は、そういう類の言葉には、軽蔑と嫌悪感しか抱きません。

 

 けれども、人智を越えた“崇高な”存在がそう言っているのだとして、それを信じることができるのならば、(あるいは、信じることを心から求めるのならば)、その人の中では、「神は存在する」ことになるのであり、宗教的な信仰もまた、その人の人生において、大きな役割を果たすことになるのではないのでしょうか。

 

                             《(9)へ つづく》

 

 

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (7)

掌の内に守るもの、掌の内で守ってくれるもの

 

 ところで、宮崎賢太郎氏は、日本のカクレキリシタン信仰を、「キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった典型的日本の民俗宗教の一つ」であり、その深層には、「さまざまなフェティシズム(呪物崇拝)的霊魂観念」がある、と述べています。

 

 「フェティシズム」(呪物崇拝)とは、(いまで言う「フェチ」は、フロイトがそこに性的なニュアンスを込めて流用したものです)例えば、十字架やメダイ、ロザリオなど、信仰の象徴として、そこに何か神がかった力が宿っていると感じられるもの(自然物でも人工物でも)を崇拝することを意味します。

 

 カクレキリシタンの人々が、そうしたものを熱心に欲しがるようすは、『沈黙』でも描かれています。

 

 「もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。………私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです」

                      遠藤周作『沈黙』

 

 要するに、キリシタンになる以前には、たとえば、小さな神仏像を身につけるなどしていれば、「鉄砲の弾が当たら」ず、勝利をおさめる、と信じられていたのが、キリシタンの象徴物に変わっただけにすぎないのです。

 

 たとえば、“持仏”については、文化人類学者の上田紀行氏が、自分だけの望みや願い、悩みごとをきいてくれる「私だけの」所有物であり、同時にそれは、人間や生きものではないにしろ、生き生きとした、(ゾクゾクするような、萌えるような)感情の一瞬を切りとった「永遠」の象徴であり、諸行無常の中の「不変のもの」だと述べています。(NHKETV特集 新しい文化とフィギュアの出現』)

 

 

 諸行無常

 川の流れに象徴されるように、この世の森羅万象、生きものも、人間も、変わらないものなどなく、すべてははかない一瞬を生きる存在でしかありません。


 私は、仏教の専門家ではありませんが、仏教の教えである生老病死と合わせた四苦八苦(愛するものと分かれねばならぬ苦痛、憎い人たちと会わねばならぬ苦痛、求めるものが得られない苦痛、体や心をもつことから来る一切の痛み苦しみ)を思い出します。

 

 “寄る辺ない”私たちにとって、空は、いつでもあるとは限らず、大地は、いつまでもそこに安定してあるとも限らず、まして、信じていた人間が、いつまでもそのまま裏切らずにいてくれるとは限りません。

 

 そうした中で、人間は、いったい何を信じ頼り、何に身をまかせたらよいのか、いつもぐらぐらした足もとと、不透明な未来を生きていかねばならないのです。

 それは、古今東西、人間ならば、必ず感じる不安であって、皮肉にも、生きている以上、そうした不安や苦痛とは、切っても切れない縁で強く結ばれているわけです。

 

 

 カクレキリシタンでいえば、私も実際に見たことがありますが、「マリア像」といっても、その造形と雰囲気は「観音さま」であって、それゆえ、「マリア観音像」と呼ばれているのです。

 

 けれども、たとえばカクレキリシタンの、ごく一部の人をのぞく大多数の信徒は、聖書を読んだこともなく、キリスト教の教義を何一つ理解しておらず、彼らが命をかけたのはキリスト教そのものへの信仰心ではなかった、ということは、たいした問題ではない気がするのです。

 

 たとえば、本当にキリスト教の教義を理解し、聖書をすみからすみまで読み、暗記していたとして、その人は、その宗教を、本当に本質から理解したことになるのでしょうか。

 

 宗教は、人なり、あるいは、信仰は、人なり、だと私は思います。

 

 「神」、といわれるもの―唯一絶対神であっても、八百万の神であっても―を理解するのは、人間の脳であり、心であり、身体であるわけです。

 

 その超自然的な力と、自分との関係や位置づけを、どのようなものにしたいとか、言い換えれば、どのような関係であると捉えれば、いちばん自分が救われた気がするのか、あるいは、自分が「撰ばれし特別な存在」、と感じられるのか、自分の最も納得する関係を、「神」との間に結びたいと思う、それが人間ではないのでしょうか。

 

 何せ、すべてを超えた全知全能の、超自然的存在、それが、「神」、なのですから。

 

 しかし、「神」や「宗教」を信じるのは、自分自身の身体や心を通してしか、この世界を捉え、理解することができない、(ほとんど無知無能で矮小な)主観的人間なのです。

 

 ですから、本当で、ほんものの教え、というものは、それこそ、それを信じる者の数だけあるといってよいのではないでしょうか。

 

 私は、それを誰か他の人が、「それは間違っている」といって、責めたり、批判したり、悔い改めるよう迫るのは、何か違う気がするのです。

 

 諸行無常の中にあって、何か、何でもよいから、できるだけ確実なものとして信じ頼ることができるものを、誰だって欲しいはずです。

 そうして、できれば、自分もまた、その対象から、「他の人々とは違う特別な存在」として“愛されている”と感じたいはずです。

 

 人間の、そのような、本質的な“救われがたさ”から、神や宗教、あるいは、何か超越して「美しい」感じがするもの、あるいはそれ以外の何でも、心から強く求め、信じ頼ることは、当人の自由だと思うのです。

 

 そして、人は、かたちなきものに強い憧れを感じつつも、かたちあるものなしには、安心して生きていくことができません。

 信仰のかたちもまた、同じでしょう。

 

 だからこそ、同じ宗教を信じる者同士が集う空間や時間を決めたり、寺院や教会などの建物を建てたり、素晴らしく美しい像を造り、その「偶像」を拝んだり、ロザリオやメダイを(あるいは、ニセモノである踏絵さえも)信仰の象徴としたり、キリストのからだであるところの「ホスチア」、キリストの血であるところの「ワイン」を分け合い、五感を駆使し―目で見て、聴いて、触れて、味わって、においを嗅いで―死にものぐるいで、安心と信頼を引き寄せ、抱き締めようとするのではないのだろうか、と思うのです。

 

 

                          《(8)へ つづく》

 

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (6)

「美しいものを愛する」ということ

 

 ロドリゴ神父にとって、キリストは、「自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの」であり、最も聖らかと信じたもの」であり、「最も人間の理想と夢にみたされたもの」でした。

 

 太宰治は、『駆込み訴え』で、裏切り者の弟子ユダの、キリストへの、愛憎入り混じる感情を描いていますが、やはり、同じような表現があります。

 

 「けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している」
 「あの人を、一ばん愛しているのは私だ」
 「あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった」

 


 「美しい」、という表現が随所に使われていますが、それは、『沈黙』における、ロドリゴのキリストへの想いもまた同様なのです。

 この世で一番美しい、と思ってきた対象を、これ以上、どうやって愛すればよいのか、この気持ちをどうすればよいのか、むしろ、どんな恋愛よりも激しいものを感じます。

 

 その一方で、ロドリゴは、神やキリストが探し求め、撰ぶのは、むしろ「美しくないもの」であることも、よくわかっているのです。

 

 「主は襤褸(ぼろ)のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。……魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰にだってできることだった。そんなもものは愛ではなかった。色あせて、襤褸(ぼろ)のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった」

 

 この言葉は、「垢と汗くさい臭気」、「臭い息」、「黄色い歯」、「狡そうな眼」の、「悪や悪人ほどの美しさももたない」「襤褸のようにうす汚いだけの」キチジローへ向けられた思いです。

 

 つまり、「美しい」キリストへの対比として、「醜い」キチジローがおり、ロドリゴは、美しいものではなくて、醜いものに心をかけることこそ「愛」だとどんなに頭でわかっていても(あるいは、自分が最も愛するキリストの想いがそうであったとしても)、「美しいもの」に、心惹かれずにはいられないという人間的な衝動を免れることはできないのです。

 

 太宰治の『駆込み訴え』の、この言葉が、そうした思いをもっともよく表現しているように思います。

 

 「この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない」

 

 「純粋の愛の貪欲」。どうしてこんな、鋭い矢を的(まと)めがけて真っ直ぐ飛ばすような表現ができるのだろう、と思うような言葉です。

 

 ただ“美しい”と思うものを、ただひたすらに崇めるという、底なし沼のような「純愛」は、それだけで、どんな刑罰にも、地獄の業火にも、勝るとも劣らない、永遠の苦しみなのかもしれません。

 

 ロドリゴ神父にとって、純粋に、ひたむきに、キリストの、唯一絶対の美しさを崇め続けることができるのなら、おそらく、「どんな刑罰も、地獄の業火さえも」おそれることはなかったのではないでしょうか。

 

 

 たくさんの信者たちが、残酷極まりない刑に処されて死んでいき、自らも、じわじわと精神的に追い詰められ、最後に、フェレイラに背中を押され、ロドリゴ神父は、ついに、この世で最も美しいと信じ愛してきたキリストの顔を踏むことになります。


 踏んだとき、果たして、彼は、何を感じたのでしょうか。

 

 「その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった」

 

 なぜでしょう。

 あれほど愛した存在を、自らの汚れた足で踏んだとき、ロドリゴは、嘆き悲しむどころか、「烈しい悦びと感情」を感じるのです。

 

 しかし、それもまた、ある種の、“性愛”の形ではないのだろうか、と私は思いました。

 

 唐突なようですが(実はそんなに唐突でもないのですが)、それが、“フェティシズム”の表現であるように感じられたからです。

 

 

                             《(7)へ つづく》

 

 

 



『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (5)

宣教師たちの見た日本―“天国に一番近い島国”

 

 ところで、宣教師=司祭(パードレ)たちにとっての信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。

 

 宣教師たちが、キリスト教弾圧下の日本にやってきたのは、キリスト教布教の灯を消さないためでもあったのですが、それだけでなく、「殉教したくてそのような行為に及んだ確信犯」的な宣教師も存在していたそうです。(宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像』吉川弘文館


 キリスト教信仰は、もともと、日本で理解されたような現世的利益ではなく、来世での永遠の生命を約束するものであり、殉教者には、100%、天国への門が約束されていました。ですから、わざわざ、赴けばほぼ確実に殉教することができる日本は、むしろ、彼ら宣教師にとっては、「天国に一番近い島国」だったのです。

 

 

 『沈黙』に話を戻します。


 登場する司祭(パードレ)たちは、いずれも、理解しがたい目的をもった聖人としてではなく、死と苦痛をおそれる一人の人間として描かれています。

 彼らにとって、キリストとは、どのような存在だったのでしょうか。


 たとえば、ロドリゴ神父は、たびたび、心の中で、「うるんだ、やさしい目をした」キリストの顔を思い描いています。

 彼は、むかしから、孤独なときには、いつも、キリストの顔を想像する癖があったのです。


 あるいは、キチジローにだまされて、役人に捕まる前、彼は、のどの渇きを潤すために川の水を飲むのですが、そのとき、映画では、川面に映った自分の顔が、キリストの顔と重なる場面があります。


 そして、役人に捕まってしまうと、今度は、こんなふうに感じるのです。

 

 「基督がユダに売られたように、自分もキチジローに売られ、基督と同じように自分も今、地上の権力者から裁かれようとしている。あの人と自分とが相似た運命を分ちあっているという感覚は、うずくような悦びで司祭の胸をしめつける」
 「更に十字架上のあの人と結びあっているという悦びが突然、司祭の胸を烈しく疼かせた。………苦しんでいる基督、耐えている基督。その顔に自分の顔はまさに近づいていくことを彼は心から祈った」

 

 

禁ずれば禁ずるほどに

 

 ギリシャ神話には、泉に映る自分の姿に恋をしたナルキッソスという青年の話があります。(ご存じのように、「ナルシシズム」の由来ですね)。

 

 ロドリゴ神父は、迫害に苦しむキリストと自分を同一化することで、ある種の「自己陶酔」に陥っており、その表現からは、かなり性愛的なものを感じます。

 

 それを示唆する表現は、他にもあります。

 

 行く先の知れなかった師、フェレイラに引き合わせられたとき、彼はもとは、顎に手入れの行き届いた「うつくしい髭」をたくわえており、それが「彼の顔に一種独特のやさしさのこもった威厳を感じさせていた」のですが、今では剃ってしまい、鼻の下や顎が露わになっているのです。

 

 「司祭はフェレイラのつるんとなった顔の部分に眼がどうしてもいくのを感じた。そこはひどく淫猥だった」

 

 多くの絵に残されているキリストの顔には、フェレイラと同じ位置に、髭があります。
 やさしさと威厳を印象づけていた髭が剃られ、隠されていたものが露わになったことが「淫猥」さを感じさせたのでしょうか。


 もし、ロドリゴが、過去、師と仰いでいたフェレイラの髭面に、キリストの顔を投影して見ていたのならば、たとえば髭が剃られたキリストの「つるんとなった顔」も、同じように感じるかもしれません。

 

 余談ですが、私は、まだ小学生のとき、ミサの「聖体拝領」で、「キリストのからだ」と言って、平たくて丸い無発酵パン(「ホスチア」というそうですね)を、神父が手ずから信者たちの口に入れるのを見て、なぜか、子ども心に、見てはいけないものを見たような気がしたのです。

 

 それは、信者たちが神やキリストと交わり、一体となる神聖な儀式なのですが、無防備に開けられた口の粘膜の中に、無抵抗に何かを受け入れる、という行為が、どことなくエロティックに感じられたせいかもしれません。

 

 

 キリスト教は、性愛について、とくに厳しく戒めていますが、むしろ、そうした“強い禁止”が、キリスト教というものや宗教というもの、あるいは、それらをとおして見た人間そのものが、いったいどういうものかを、かえって強い印象で浮かびあがらせているのではないでしょうか。


 フロイトも言っていたことですが、何かを執拗に、厳しく禁じたり、戒めたりするという行為は、それ自体をもって、むしろ、それが天然自然の姿であり、本体であることをかえって露呈してしまうのです。

 

 なぜなら、もとからそうしたことに強く引かれる性質をもっていないのならば、わざわざ取り立てて厳しく禁じる必要などないからです。


 たとえば、「殺してはならない」という“禁止”もそうですが、人間に対して暴力や殺人を、社会規範や法律などで厳しく禁じているのは、人間というものは、放っておけば、そうした行為に及びかねない、本来そうした性質をもつものである、ということを、われわれ人間の誰しもが、無意識的によく知っているからなのではないでしょうか。

 

                             《(6)へ つづく》