他人の星

déraciné

逢魔時

 

 

       

       生者と 死者が 行き交う

       その刻

       闇の 重さに ねじ伏せられて

       太陽は 決して 明日を 約束しない

 

       「金色(こんじき)の麦

       この胸 いっぱいに

       積んだら 帰ろう」 と

 

       それが ただの書割だと 気づく頃には 

       もう 遅い

 

       頭上に 迫る 黒雲と 稲光 

 

       カラスの群れが 

       最後の光を 引きつれて

       黒い森へ 消えていく

 

 

       おしえてほしい

       ここは どこなのか

 

       たずねようにも

       足をとめる 人もなく

       たずねられたくもない のか

       あるいは

       たずねられても 答えられない のか

 

       誰も 何も 知らない のか

 

 

       闇の世界で

       カラスは 決して 地に降りない

       それは

       あらゆるものを のみ尽くしても あまりある

       闇の深さを 知るゆえか

 

 

       おしえてほしい

       わたしは 誰 なのか

 

       生者か 死者か

       まぼろし か

 

       たずねようにも

       あたりは すでに しんとして

 

 

       小夜啼鳥が 鳴く ばかり

 

 

 

 

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星月夜

 

 

       ぼんやりと 目が かすんだように

       世界の 何もかもが

       二重にも 三重にも

       にじんで 見えることが ある

 

       きのうまで

       つい 一瞬間前までは

       はっきりと しっかりとした

       そのかたちにしか 見えなかったものが

       光 でさえ

       闇 でさえも

       もはや わたしに 親(ちか)しくはなくて

 

       夜露のように

       世界は 地平線に

       はかなく とけて 消える

 

       ああ これが ほんとうなのかもしれない と

       思ってみようと する けれど

 

       悲しみを 知るためだけに

       苦しみを 知るためだけに

       憎しみ 憤り

       せつなく むなしく

       この身を のろい

       世界を のろう

       そのためだけに 生まれてきたのかと

       すすり泣く 声がして

 

       寄る辺なき この身が 

       打ち寄せられ 迎え入れられる 浜辺を

       あきらめ 遠ざかる

        

       ときには

       ひとつの うたに 音楽に

       ひとつの 筆先に 声に

       その 魂の憩う 岩礁

       しばし 指先を あずけたら 

       また 漂っていかなければならない

 

       荒れた 海の上を

 

 

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アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(3)―苦しい「個」の生は、いったい何のために?―

 

過ちは去りゆく………

 

 この間、何気なく、テレビ(いずれ去りゆく運命にあるじじばばメディア、と私はよく、パートナーに言っていますが)を見ていて、いまさらのように気がついたことがありました。

 

 そうか、「過去」とは、「過ちが去る」、と書くのだっけ………

 

 拡大解釈して考えるのならば、過去とは、間違いややり損じ、失敗の“金字塔”(決してすぐれた業績ではなくて、ちりあくたやヘドロの山ですが)であって、人類の過去、これすべて過ちなり、ということになります。

 

 不思議ですね。

 年を取ると、人はよく、「昔はよかった」、なんて言うようになるのに。

 

 私も、うっかり自動的に言ったり思ったりしてしまい、「どこが、昔はよかったんじゃい、このクソが」と自分で自分にツッコミを入れること、しばしばです。

 

 そうです。ヒトは、相変わらず、ずっと何も変わっていないのだと思います。

 

 チャウチャウ犬の(たぶん)、巨大なもりもり山盛りウ○コに、思いっきり片足を突っ込むような過去(私の実体験です)しかないにもかかわらず、どうして放っておくと、ヒトは、過去を美化したがるのでしょうか。

 

 その実、過去、という漢字に、「成功」とか「栄光」に関係する漢字を入れず、わざわざ「過」の字を当てて、「過ちが去る」としたのは、ヒトが、本質のところで、自分の生きてきた時間のほとんどに、自信をもつことができない生きものだからなのかもしれません。

 

 「これでいいわけがない」、「過ぎたことは仕方がない」、だから、「まだ失敗のない新しい明日から、今度こそ、本当に正しい、善き日々を送ればいい」、と、いつもいつも、繰り返し繰り返し、どこかで思い、願っている、ということなのでしょうか………。

 

 

 

「個」の終わりに待ち受けているものは

 

 さて、ここからは、またネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 子どものような人類をあやし、成長、成熟させるため、地球にやってきたオーヴァーロードたちは、その幼さ、未熟さゆえ、「間違いだらけの日々」から、一向に抜け出す気配のない(抜け出せない)人類を「救う」ことに成功します。

 

 憎しみや争いごと、不平不満から解放され、人類ははじめて、公平にして平等、平和な世界を手に入れ、幸福の中で暮らしています。 

 

 

 自分たちを、幸福に生きられるよう導いてくれたオーヴァーロードたちに感謝しつつ生きる人間たちの間に、やがて、“新人類”ともいえるような子どもたちが生まれてきます。

 

 彼らは、未来、というよりも、まるで時間の流れなど関係ないかのように、先のことを知ることもできますが、個々の感情やコミュニケーションをもたず、親である大人たちには理解できない、不思議なリズムで、他の子どもたちと同調し、親たちのもとを去って行きます。

 

 そんな子どもたちを理解できず、子どもから“捨てられた”親、つまり、もはや過去の遺物となった、“「個」であること”を、到底今さら脱することができない大人たちは、絶望し、自滅していくのです。

 

  けれども、その先には、いったい、何が待っていたのでしょうか。

 

 実は、オーヴァーロードたちは、宇宙の最上位に君臨する存在“オーヴァーマインド”―「巨大な燃える柱」―に仕える身であり、地球へ派遣されてきたに過ぎないのです。

 

 何のために?

 

 それは、人類、個々の人間を“個”から「解脱」させ、物質の限界を超えたエネルギーとなって、オーヴァーマインドと一体化させるためです。

 

 そうして最後には、天体として存在していた地球のすべてが、“新しい子どもたち”の後を追うかのように、彼らのメタモルフォーゼのためのエネルギーとして吸収されます。

 

 かくして、地球と、人類含むあらゆる生命体の「過去」は、永久に失われてしまったのです。

 

 

 

 私たちは、ヒトとして、この地球上に生まれ、歩みはじめたときから、当たり前に、「汝」と「己」を区別しています。

 

 人々が、人間というものを、「個」としてとらえる世界に、産み落とされたからです。

 そうして、ヒトは、「己」よりも「汝」、あるいは近しい第三者が得をしていると感じると、嫉妬や憎悪で、いてもたってもいられないほど苦しみます。

 

 “個”であること、すなわち、「私」はこの世に一人だけ、という感覚は、何かがうまくいったり、目的が達成できたり、欲するものが手に入ったりしたときには、満足や快感のもとになりますが、他方、ものごとがうまくいかない苦痛や悲しみを味わうほどに、「どうして『私』だけが」という七転八倒の苦しみを、たったひとり、孤独のうちに、いやというほど味わわなければならなくなるもとでもあるのです。

 

 

 私は、この『幼年期の終わり』を読んで、いちばん、じわじわとした消化不良のようなものを感じたのは、その点についてでした。

 

 

 思いどおりにならない、満たされない、決して叶うことのない思い、悲しみ、心の傷つきや痛み、悩みに責め苛まれてきたこの身を、いったいどうしてくれようか?

 

 単なる“苦しみ損”で終わってしまうというのでしょうか?

 

 

 たしかに、人間が“個”であるということは、決して「現実」などではあり得ません。

 

 ヒトの脳が、身のまわりの情報を処理するためには、まず、ものごとを区別・分別・判別しなければならず、そのため、ヒトやモノの物質的な境界線は、便宜上、脳(という、いわば幻灯機)によって生み出された「幻の」概念に過ぎないという事実は、本さえ読めば、知識として知ることはできます。

 

 けれども、それを知ったところで、いったいどうなるというのでしょうか。

 

 ヒトからヒトへ、子々孫々、脈々と伝えられてきた「世界の見方」は、私たちの体や脳のすみずみまで、深々と埋め込まれており(この埋め込みこそが、ヒトを人間にする養育や教育のプロセスといえるでしょう)、まるでパソコンのOSのように、あらゆる情報を処理、制御しており、このOSが破壊されたり失われたりしてしまえば、外界に適応して生き延びることはもはや不可能となるでしょう。

 

 

 最初に書いたように、もし、「過去」が、やり損じや失敗、目を背けたいような汚物にまみれた時の流れであって、「まだ失敗のない明日」、傷が癒やされ、思いや願いごとが叶い、すべて昇華されることを、この身のまま、たとえ祈るように夢見ても、何の意味もないのだ、としたら…………。

 

 

 罪を犯した罪人が、あとで支払わなければならない代償のように。

 年を取るからだと心を抱えて、生きることそのものが、刑罰であるかのように。

 

 

 生きることは、あまりに苛酷すぎると、私には、そうとしか、思えなかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(2)―ヒトがヒトの正体を知らなさすぎる、という謎―

 

 数週間前の土曜の夕食時、テレビを見ていて、思わず、カレーを食べる手が止まりました。

  見ていたのは、NHK・Eテレの『地球ドラマチック』で、『ハッブル宇宙望遠鏡~宇宙の謎を探る30年間の軌跡~』です。

 

 ハッブル宇宙望遠鏡は、宇宙が始まったばかりの頃の宇宙の姿から、星々が集まり、銀河系をつくり始めた頃の姿まで、宇宙の過去の姿を、すべて、たった一枚の画に、写しとって見せてくれたのです。

 

 ああ、そうか、何十億光年とか、何億光年とかいうのは、それくらい前に発した光が私たちの目に届くまでの単位であって、つまり、私たちが夜空を見上げたとして、見ることができるのは、すべて、過去の姿なのだった……、と、いまさらのように思いました。

 

 私は、理数系がからきしだめで、数字だの、数式が出てくると、体がむずがゆくなってくるので、知りたい知識がそっち系の場合、子どもにもわかるような、初心者向けのやさし~い本しか読めません。

 

 その中に、こんなことが書いてある本がありました。

 

 「われわれは過去を憶えているけれど未来を憶えていない。

 あたりまえだ、などと言うなかれ。よくよく考えてみれば、なぜ、時間の一方向だけを記憶しているのかは、大変に難しい問題なのだ。」

 

   竹内薫『図解入門よくわかる最新時間論の基本と仕組み』秀和システム 2006年

 

 

 同書によれば、時間の考え方には、過去から未来へ一直線に流れるという直線的時間と、ドーナツみたいな形をしていて、ある程度の時間がたつとまたもとのところへ戻ってくる円環的時間とがあるらしく、それどころか、時間も空間も、本当は存在していない可能性さえあるらしいのです。

 

  

 

未来は、過去に、予告する

 

 さて、ここからは、ネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 『幼年期の終わり』は、簡単にまとめてしまえば、身体的にも精神的にも、政治的にも経済的にも、科学的にも知性的にも、つまり、あらゆる意味で、生きものとしてあまりに未熟で幼なすぎる人類のおもり役として、「オーヴァーロード」なる生命体が、地球へ派遣されてくるお話です。

 

 人類は、「オーヴァーロード」の支配を、甘んじて受け入れるのですが、ヒトは視覚の囚人であるゆえ、どうしてもその姿を見たい欲求にかられ、あれこれ策を練って実行するのですが、いかんせん、「未熟」すぎて、オーヴァーロードに先を読まれ、ことごとく失敗します。

 

 なぜ、オーヴァーロードたちは、その姿を、人間に見られてはいけなかったのでしょう?

 

 それは、人類が、その姿を目にしたとしても、驚いたり、恐ろしがったりして、抵抗したり、反逆を企てたりすることのないよう、人類が少しでも成熟するまで、(あるいは、オーヴァーロードの存在に十分慣れて、その支配を当たり前だと思うまで)、時間をかせぐ必要があったからなのです。

 

 なぜなら、オーヴァーロードたちの姿は、“悪魔”そのものだったのですから……。

 

 人類は、オーヴァーロードたちのおかげで、はじめて、“幸福”な世界を築きあげることに成功します。

 互いに憎しみ合わざるを得ないような格差や不平等、あらゆる差別偏見はぬぐい去られ、それぞれに、生きがいや、やりがいある仕事に恵まれて、すべての争いごとや、破滅的な戦争から解放されます。

 

 

 そりゃ、誰だって、平和が好きに決まってる。

 人間だもの。

 

 ……なんて、また、嘘ばっかり、言っちゃって。

 

 

 平和なんてキライ。

 ただし、オレさまの言うことに、みんな黙って従ってくれるなら別だがね。

 平等なんてキライ。

 いつだって、オレさまの方が、ほんの少しでも、優位じゃなくちゃ。

 人間なんてキライ。

 だって、オレさま以外、みんな、ばかばっかりじゃないか。

 

 

 

 ……なんていう人類を、いったいどうやっておとなしくさせたのか、そっちの方が、ずっとずっと知りたかったです。

 

 

 オーヴァーロードたちが支配する、新しい世界では、英語を話せない者は一人もおらず、誰もが皆、誰とでも、満足したコミュニケーションをもつことができるという、実に、絵に描いたような“ユートピア”が実現するのです。

 

 なんで英語?…と、正直、思いました。

 英語圏でつくられたお話ですから、仕方がないのでしょうけれど、もし私だったら、テレパシーとか、そういうたぐいのものの方が、いいのにな、と思いました。

 たとえば、互いに、手のひらをかざし合うだけで、気持ちが通じたり、会話が成立したりするなら、すてきなのに……。

 

 (なぜかというと、私は、口を開いて、声を発し、言葉を話すことに、しばしば、疲れを感じるからです。ああ、なんと、気力と力がいる動作であることか、そのくせ、こちらの言わんとすることが、きちんと伝わらなかったり、誤解されたり、あああ、コミュニケーションって、不毛すぎるっっ!……と、よく思います)。

 

 

 彼ら、オーヴァーロードたちの、本当の目的がなんなのか、物語の終盤にさしかかるまで明らかにされないため、物語全体に、不気味な影さしていて、緊張感があります。

 

 だからこそ、おしまいまで、面白く読めるのでしょうね。

 

 

 

何にも知らないのに……

 

 そして、さきほどの、円環的時間―あるいは、もっと他の、私たち人類が知りもしないたぐいの、“時間の流れ”―は、終盤、とても重要なはたらきをします。

 

 知り得ないはずの「未来」が、主要登場人物の中の、一人の女性―正しくは、その女性が将来産むことになる子ども―の口を借りて、あらわれるのです。

 

  あり得ない!と思いますが、前掲書によれば、人間が、過去のことは憶えていて、未来のことは憶えていない、というのは、当たり前ではなく、大きな謎なのですから、あり得ない話ではない、ということになります。

 

 しかし、問題は、それだけではありません。 

 

 私たちヒトは、驚くほど、ヒト、という自分たちそのものについて、何も知らなさすぎるのです。

 

 

 たとえば、主に視覚に頼って外側の世界を捉えている私たちに見えるのは、空にかかる、あの虹の波長の範囲だけです。

 人間には、この世界のほんのごく一部しか見えていないので、そういう意味では、ほとんど盲目のまま、この地球の上を、せかせかと、歩き回っているようなものです。

 

 よく、天才的なドロボーさんが、博物館とか、美術館とかに、貴重品を盗みに入って、編み目のように張り巡らされてるレーザー光を抜けて、まんまとお宝を手に入れたりしてますよね。

 もし、世界が、あんなふうに、実は、あちこち、隙間がないくらい、いろんなもので、“混雑”しているとしたら?

 ほんとうは、そこに何かあるかもしれないのに、見えないからといって、適当に、あっちこっちほっくり返してみたり、ぼこぼこ建物を建てたり、乗り物走らせたり飛ばしたりするのって、実は、この上なく大胆で、無謀なことなんじゃないかと、時々思います。

 

 

 

 

 

 

アーサー.C.クラーク 『幼年期の終わり』(1)―ヒトの戦争好きは、ヒトの幼きゆえなのか―

 

 昨年8月、NHK・Eテレの『100分で名著』、ロジェ・カイヨワの『戦争論』が取り上げられたとき、指南役の西谷修氏は、「現代(いま)は、冷凍庫の中で戦争しているようなもの」、と言いました。

 

 私は、なんてうまい表現だろう、と思いました。

 

 あるいは、『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインフロイトの往復書簡』(花風社 2000年)の解説で、養老孟司氏は、「戦争とはつまり土建のことです」、と言いました。

 

 私は、目の前で、シュッ、という音がして、的のど真ん中に矢が当たったのを見たような気がしました。

 

 

 なぜ、戦争は起きたのか、なぜ、取り返しのつかない多大な犠牲を払っても、その本当の理由にも真実にも目を背けていられるのか、そしてなお、こりもせずに、あれからずっと、この国が戦争をやめる気配はありません。

 

 もし今度、持てる限りの科学技術と兵器を実際に使用した世界大戦が起きようものなら、人類も地球も終わりであることは、誰もが知っている事実です。

 

 だからこそ、戦争は水面下で、あくまでも「冷凍庫の中で」、やらなければならないのです。

 

 私は専門家でも何でもないので、詳しいことはよくわかりません。

 

 けれども、日本も含め、いくつかの国内外で、利権がらみの問題(つまり、お金、マネーですね)をめぐって、互いに牽制し合ったり、口げんかをしたりしているのを見て、困ったものだなあ、と(のんきに)思います。

 私などは、「生産性のないヤツ」として、深海魚のごとく、海の深いところに沈められたままなので、海の上で何が起きているのか、本当は何も知らないのでしょう。

 

 

 そして、このコロナ禍でも、あるいは、あの震災のときでも、いつも変わらず元気なのは、“土建”です。

 

 これを書いている、まさにいまも、ついこの間、更地になったばかりの土地で、アパートを建てようと、せわしなく動く重機の音、何かを掘る音、作業員の大きな声が飛び交っています。

 

 本当に、元気そのものです。

 

 

 私は、といえば、夏目漱石の、「みんな金が欲しいのだ、そうしてそれ以外には、何も欲しくないのだ」、という名言を、頭の中で、数え切れないほど、繰り返し、繰り返し、つぶやいています。

 

 

 つまり、みんな、おんなじものが欲しいから、喧嘩になるんだよね~。

 

 

 

 先頃(といっても、70年立ちますが)起きた戦争だって、そうです。

 

 「お国のため」、「家族のため」、「大切な人を守るため」(あれれ~?どこかできいたことがある言葉だなぁ?←コナンくん風に)、多くの若者たちが、命を散らしていった、ということになりますが、そんなの、真っ赤な嘘です。

 

 財閥や軍閥のお金儲けのためだけに、殺されたのです。

 しかも、「戦死」した日本兵の6割は、戦闘死ではなく、餓死と病死です。

 どれだけ無謀な戦争だったかわかりますし、「死ぬとわかっていて戦場に送り、そのまま死ぬにまかせた」、まさに、その行為こそが、“殺す”ということだと言っているのです。

 

 戦争すれば、大変お金が儲かります。

 飛行機やら、船やら、道路やら、武器。たくさんつくって、売れれば売れるほど、利益が上がる。

 戦争は、破壊行為ですから、せっかくつくったものが、あっという間に、どんどん破壊されて、需要はうなぎ登りですから、ウハウハです。

 

 

 しかし、だからといって、国民の側も、「だまされた」、なんて言っちゃあいけません。

 

 日々、メディアが報じる「勝利」の言葉にあおられ、国民は、「空虚な熱狂」(姜尚中氏が、『サンデー・モーニング』で使った言葉です)に酔い、軍上層部では、もともと日本にそんな力はなく、絶対に米英開戦は避けねばならないと考えていたのに、「はよ米英開戦せんか、この東条の腰抜けめ」、と猛プッシュしたのは、国民です。(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』NHK 2011年3月放映)

 

 こうした日本の未来を、明治時代、すでに見抜いていた「外国人」がいました。

 

 「日本帝国の軍事的復活―それが新日本の真の誕生なのだ―は日清戦争の勝利とともに始まった。……中略……今度の戦争よりもさらに雄志をのばして、もっとずっと永続する成果をあげるために、どれほどの難関が前途に横たわろうとも、日本はもはや危惧したり逡巡したりすることはないに違いない。

 しかし日本にとっての将来の危険はまさにこの途方もなく大きな自信の中にあるともいえよう。それはなにも今度の勝利によって創り出された新しい感情ではない。それは一種の人種的国民感情で、戦勝の報せのたびにひたすら強められ高められてきたものである。宣戦布告の瞬間から、最後には日本が勝つということについての疑いはまったく生じなかった。」

 

         小泉八雲ラフカディオ・ハーン)「戦後に」 1895年5月(彼曰く、「この輝かしい皇紀二千五百五十五年のこの春」)

 

 

 

 

 私が言いたいのは、いまなお、この日本は、戦争まっただ中だ、ということなのです。

 

 コロナ禍の禍(わざわい)は、あきらかに天災ではなく、人災だと思います。

 新型コロナウィルスに感染した人、クラスター感染を出した施設、医療従事者、あるいは、マスクをしない人に向けられるバッシングは、戦時中の思想・言論統制に、とてもよく似ています。

 戦時中の、「非国民」、という言葉は、お上から、ではなくて、同士であるはずの、同じ国民から国民へ向かって発せられたものです。

 

 言ってはいけないこと、というよりも、言ったら叩かれるとか、いじめられるとか、見せしめとして、さらしものにされたり、人格否定されたり、社会的に抹殺される可能性のあるものは、あらかじめ“自主規制”、つまり、“自粛”することがあたりまえになっているのです。

 

 マスクをするということは、「口を封じる・封じられる」象徴ですらあるのではないか、と思ってしまうほどです。

 

 それに、生活困窮者の救済をせず、「死ぬにまかせて」いるのは、何も、新型コロナウィルスにはじまったことではありません。

 (どこかの朝の番組で、スウェーデンのコロナ対策、「集団免疫」を、高齢者や持病のある人、重症者、死亡者を軽視しているのではないのか、スウェーデンの死生観「助からないものを無理に助ける必要はない」という、日本とは違う死生観によるものかと批難していましたが、それは、スウェーデンという国が、助かる命を、社会政策によってきちんと助けているからいえることであって、日本のように、助かる命も社会政策で救わず、死ぬに任せているのとは、まったく状況が違うことを理解していないからでしょうね)。

 

 

 問題は、先頃の戦時中よりも、見えにくく、深刻であるようにも感じます。

 

 冷凍庫の中で、何も知らずに、“見えない戦争”を戦わされている、私たち。

 そのことに、いったい、どれだけの人が、気づいているのでしょうか。

 

 

 私たちが、いつまでもいつまでも、滑車の中のネズミのように、同じ輪の中から抜け出せないのは、幼児のように未熟だからなのでしょうか。

 

 人間が人間を正しく導くことは、不可能なのでしょうか。

 

 もっと成熟した、知的生命体でなければ、私たちを救い出すことは、できないのでしょうか……。

       

 

 

 

 

 

          

 

日暮らし

 

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       でこぼこした 熱い アスファルト

       とおり雨が 残した

       気まぐれな 水たまり 

 

       泥水の 上にも

       まぶしい 太陽が 反射して

       直視 することは できない

 

       ヒグラシが 鳴く

       晩夏の 夕暮れ 

       

       落ちくぼんだ 道端に

       からからに なって 上向いた

       ブローチみたいに 完璧な

       セミの死骸が 落ちている

 

       のども 裂けよ

       からだも 裂けよ と 

       一生を 恋に鳴き

       さいごには

       泣いたのか 笑ったのか  

 

       どんなに苦しく 狂おしい 想いも

       何の 痕跡も 残さずに

       手の上の 死骸は

       あまりに かるく

 

       わたしは どこかで

       また いつもの

       偽善者じみた 願かけを する

   

       セミの 死骸を すずしい葉陰の

       土の上に おきながら

 

       どうか せめて

       ひとかけらの 罪の つぐないに

       なりますように と

       

 

       セミの 死骸は ほかにも 

       落ちては いないだろうか

       さがして 歩く

       ひとりきりの わたしを

       陽の名残りが 見ている

      

 

       いつか 同じ 

       かるい死骸になる

       わたしの 背中を 

       

 

       

 

 

 

 

 

 

ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』(6)―なぜ人は、“人間らしさ”=優しさやあたたかさ、思いやりだと思うのか?

人間は、そんなにいいものか?

 

 

  「いったいみなさんは、人間の本性に利己主義的な悪が関与していることを否定する義務を感じなければならぬほど、上司や同僚から親切にされたり、敵に義侠心を見出したり、周囲からねたまれずにいたりしているのでしょうか。」

                    フロイト 『精神分析入門』

 

 

 フロイトが言っていることは、人間の現実に他ならない、と思います。

 現実の社会生活の中で、私たちは、日常的に、自分と同類である人間から、ひどい目に遭わされているのではないのでしょうか。

 (そんなこと一度もない、という人も、いるのでしょうか?????)

 

 そのたびに、人間関係をもつこと、あるいは、必要以上に親密になり、自分の本音を明かしたりして、深入りするのはもうやめよう、とか、もう人間なんて、信じない、と、かたく心に誓ったりすることも、あるのではないでしょうか。

 

 (『もののけ姫』に出てくる猩々たちのように、「人間信用できない」、「人間出て行け」、「俺たち人間喰う」とひそかにぼやくことも……)←注:私のことです

 

 

 それなのに、ほんの少しでも、他人から優しくされたり、他人の親切な行いを見たりしただけで、180度ころりと回転、ほわほわわ~んとした気持ちになるのも、おかしな話だと思います。←注:これも私のことです

 

 

 繰り返しになりますが、フロイトが言っていることこそ、本当のことです。

 

 なのに、なぜ、私は(私たちは?人間は?)、「人間らしさ」というと、つい自動的に、優しさやあたたかさ、思いやりのことだと思ってしまうのでしょう?

 

 

 あの『ウルトラマン』の歴史に残る名作、「故郷は地球」も、そうです。

 地球の科学発展のためのロケット発射実験が失敗し、宇宙に捨て去られた宇宙飛行士“ジャミラ”が、行き着いた星の環境に適応し、体が変化して怪獣になり、故郷の地球へ復讐するために帰ってきて、大暴れするのを見て、科学特捜隊のイデ隊員は、こう叫びました。

 

 「ジャミラ、てめぇ、人間らしさを忘れちまったのかよ!」

 

 イデ隊員は、ジャミラと同じ科学者であり、科学特捜隊の中で、もっともジャミラの境遇に同情し、ジャミラを殺すなんてできない、と言ったにもかかわらず、です。

 

 もっと言うと、科学のために人間を犠牲にしたなどと公に知られることがないよう、ジャミラのことは、誰にも知られずこっそりと、「秘密裡に葬り去れ」などと命令する、そのあまりの人間の冷淡さ冷酷さに接したにもかかわらず、彼は、まだ懲りずに「人間らしさ」を善いものと信じているようなのです。

 

 

 かくいう私もそうで、人間からひどいことをされて、同じく人間である自分のことは棚に上げて、「人間はひどい」「信じるもんじゃない」と言うのに、ふと気がゆるむと、ほとんど「自動的に」、人間らしさ=優しさ、あたたかさ、思いやりだと懲りずに思っている自分がいて、そのたびに、驚きあきれるのです。

 

 

 これほど何度もごしごしタワシで血が出るほど洗いに洗っても(たとえです)、人間らしさを善きものと思うクセが、しつこい汚れのようにとれない、ということは、これはもう、おそらく、個人の心や心情のレベルを越えた問題なのだな、と思いはじめたのです。  

 

 

 

 

救われない最後

 

 ここからは、再びネタバレになりますので、ご注意ください。

 

 

 ジャックの一味が、ピギーの眼鏡―“火”を盗みに来る前、ラーフとピギーが、ジャックたち狩猟隊が仕留めた野豚の肉を分けてもらったとき、最初の悲劇が起こります。

 

 顔に隈取りをし、いまではすっかり仲間を増やしてラーフより優勢になったジャックは、皆に、“いつものダンス”をするよう、命じます。

 

 いつものダンスとは、皆が輪になって、「獣ヲ殺セ!ソノ喉ヲ切レ!血ヲ流セ!」と口々に唱えながら踊る、一種の儀式めいた集団行動です。 

 

 そのとき、その場にいたラーフとピギーも、「この狂気じみたしかし半ば安定している団体の中に参加したい」という気持ちになっていくのです。

 ジャックとの対立による不快な感情や、ジャックの勢いによって、どんどん自分たちが取り残されていくようなさびしさや心細さから解放され、自分たちも仲間になって、「ほっとした気持ちになりたい」、という心理からでした。

 

 

 しかし、その踊りのさなか、ちょうど、輪の真ん中で、狩られる豚の役を演じていたジャックの手下、ロジャーが抜けて、自らも輪に加わったとき、そこへ新たに転がり込んできた少年がいました。

 

 それは、もとはラーフの側にいて、彼を手伝っていたのですが、いつしかひっそりと姿を消していた少年“サイモン”でした。

 

 このサイモンこそ、島で皆が恐れた「獣」と、もっとも正面から向き合った少年だったのです。

 

 彼は、ジャックたちが狩った豚の頭を「獣への贈り物」だと言って置いていった場所で、その豚に真っ黒にたかる蠅の中に、“蠅の王”を見るのです。

 

 蠅の王は、サイモンにこう言います。

 

 「獣を追っかけて殺せるなんておまえたちが考えたなんて馬鹿げた話さ!」

 「おまえはそのことを知ってたのじゃないのか?わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?」

 

 そうです。“蠅の王”が言うように、サイモンは、気がついていました。

 「ぼくがいおうとしたのは……たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」

 以前、みんなの前で、こう発言したのですが、馬鹿げている、と嘲笑されただけでした。

 

 

 蠅の王との対話の後、彼は、どこからか、パラシュートで脱出したものの、そのまま死んでしまい、島に降り、風でパラシュートが開くたびに立ち、しぼむと、お辞儀をするように頭をたれるという、いかにも不気味な動きを繰り返していた人間の死体を発見します。

 

 皆が恐れていた「獣」の正体を見たサイモンは、みんなに知らせようと、ジャックやラーフたちがダンスをしている、その輪の中に飛び込んでいきます。

 

 けれども、踊り続けるうちに、ほとんど集団催眠のような状態に陥っていた彼らは、彼がサイモンだとも気づかずに飛びかかり、まるで豚のように惨殺してしまうのです。

 

 

 それだけではありません。

 

 

 ラーフやピギーと、ジャックたちの関係はさらに悪化し、明らかな敵対関係となり、ジャックの一味の攻撃によって、ピギーもまた、無残な死を遂げます。

 

 その後、みつかって捕まれば、殺されるだけのラーフは、島中を必死に逃げまどい、それをいぶし出そうと、見境なくあちこちに火をつけるジャックたちによって、島は火の海となり、もはや、誰一人、生き残ることができないであろう状態にまで陥ってしまいます。

 

 皮肉なことに、その大火によって、海軍の巡洋艦に発見されるのですが、ラーフ、ジャック、彼ら少年たちは、もう、“無垢”ではありませんでした。

 

 ラーフは、「全身をねじ切るような悲しみの激しい発作に」嗚咽し、他の少年たちも、引き込まれて同じように泣くのですが、もはや、取り返しはつかないのです。

 

 

 

大切なのは、もはや、“いのち”ではない

 

 

 おそらく、私たちは、誰もが皆、意識的であるにしろ、無意識的であるにしろ、人間である以上、その奥に、救われがたい残忍さを秘めていることを、どこかで知っているのだと思います。

 

 ですが、同時に、私たちは、誰もがみな、人間のはしくれとしてこの世に生を受け、人間の間で生きていかなければなりません。

 そのために、人間社会に“適応”できるようにしなければならず、もし、“善き”人間らしさを否定し、適応を拒めば、孤立と死が待っているだけです。

 

 人間の世界で、人間を信じ、うまくやっていけるよう、親は子どもに、必死になって、人間の良さを“人間らしさ”として教え込むでしょうし、もはや、個人の意志の力だけでは変えようがないほど、その価値観を、奥の奥まで、刷り込むのでしょう。 

 

 

 (4)で、ヒツジの群れは、群れの先頭を行くリーダーが崖から落ちると、みんな一緒に、崖から落ちてしまう、と書きました。

 

 

 新型ウィルスをめぐる「マスク」、あるいは、地震や自然災害などの際、よく、メディアを通して、「(自分や、大切な人の)いのちを守る行動を取ってください」、というメッセージがきかれますが、私には、何か、違うような気がするのです。

 

 

 マスクをする理由を調査してみたら、「みんなが着けているから」、という回答がいちばん多かったという話もそうですが、それと、「いのちを守ること」とは、どうしても、結びつかないのです。

 

 ということは、人間社会において、もっとも大切とされているのは、実は、「命を守り・守られること」ではなくて、「適応すること・させること」(逸脱した行動を取らないこと)の方なのではないでしょうか。

 私には、そうとしか、思えません。

 

 そうであるかぎりは、勢いのある流れが、たとえば崖へ向かっていった場合には、みんな一緒に自滅する、ということになるのでしょう。

 

 『蠅の王』で、勢いや場の流れによって、2人の少年の命が失われ、さらに、ジャックと彼の仲間たちが、島の果実や豚を燃やし尽くし、もはや誰一人、生きながらえることができないとしても、勢いにまかせ、“敵”(すなわち少数派、しかもたった一人の「逸脱者」)であるラーフをいぶし出そうと、ただそれだけのために、豊かな島のあちこちに、火をつけて回るように………。

 

 

 

 

                          《おわり》