他人の星

déraciné

『リリーのすべて』(3)ーわたしの中の、“火掻き棒”ー

“あぁ、カン違い”

 

 漫画『サザエさん』の中に、とても興味深いエピソードがあります。

 

 カツオくんが、交通量の多い大通りに面した歩道を歩いていると、同じ学校に通う女の子に出会います。

 「ア!! 一組の岡さん」

 岡さんは、言います。

 「アラ このへんはじめてネ 案内してあげる」

 このとき、カツオくんは、自分の胸がドキドキしていることに気がつきます。

 そして、胸の内で、つぶやきます。

 「このむなぐるしさ……はげしいどうき 

じゃァ ボク 彼女を愛してたンだ………しらなかった!!しらなかった!!」

 すると、岡さんが言いました。

 「いき苦しいでしョ!はいきガスの一番ひどい交差点ヨ」

 カツオくんは、ホッとして、声に出さずに言います。

 「だろうな~ 好みのタイプじゃないもン」          

 

 そうです。カツオくんは、とても面喰いですから、カワイイ子にしか、興味がありません。岡さんは、その点からいえば、“カツオくんの好みではない”女の子でした。

 

 つまり、カツオくんは、本当は、ひどい排気ガスのせいで心臓がドキドキしていたのですが、その動悸を、目の前にいた女の子“岡さん”への、今まで気づいていなかった恋心のせいだと、誤って原因帰属してしまったのです。

 

 『サザエさん』には、ずいぶんあとになってから、科学的に解明されたり、説明できるようになった人間の性質について、鋭くえぐり出しているお話があって、しばしばギョッとさせられます。

 作者の長谷川町子さんは、きっと、人間に深い興味をもち、よくよく観察をしていた人なのでしょう。

 

 このエピソードは、後年、認知科学によって明らかになった、人間の感情と行動の関係を、よく現していると思います。

  

 私たちは、何かを選んだり、決めたりしたとき、それは「自分の意志」によるものだと考えます。

 そして、誰かや何かを「好きだ」(あるいは、「嫌いだ」)と感じたとき、「それはどうして?」と理由をたずねられれば、ほとんどの場合、明確な答えが返ってきます。

 

 ですが、それは本当でしょうか?

 

 答えは、「No」……である可能性が高いです。

 目に見えて明らかなものほど、あやしいものはありません。

 

 

 私たちは、家族や友人、あるいは、ぐるりとそれを取り囲む国や社会といったものの中で生きており、その意味では、否応なく、「社会的」に生きさせられます。

 この国では、大人になって働き始めると「社会人」と言いますが、変な言葉だな~と、常々感じていました。

 なぜなら、人間は、オギャーと生まれたときから、強引に「社会」の中に仲間入りさせられる「社会人」だからです。

 

 たとえ一人でいても、引きこもっていても、「社会」はいつもすぐそばにあって、ことの次第によっては、「ヤリをかまえて」、個人を取り囲みます。

 

 何かを選んだり、決めたり、「好きだ」「嫌いだ」と言った場合、私たちは、大抵、すぐにその理由を思いつき、自他に説明することができますが、それは、そうしたことには必ず理由があることが自明となっている社会に生まれたからです。

 

 それは、自分の選択や行動に責任をもたされる、厳しい「自己責任」の社会です。

 

 だからこそ、人間の「意識」は、無理矢理に、理由を捏造することさえあります。

 

 身体の生理的反応が意味する真の原因、自分の行動の、真の理由に、アクセスできないことなど、日常的によくあることなのにもかかわらず……。

 

 心臓のドキドキの本当の理由が「排気ガス」であるにもかかわらず、目の前にいる、決して好みではない女の子を「好き」なせいだと誤解したカツオくんのように。

 

 それは、稀なことでも何でもなく、私たちの社会が成り立つためには、個人が心の中で、気づきもせず、意識もせずに「嘘をつく」ことが、必要なのだと思います。

 

 自分が、どんどん嘘まみれになっていくことに、どれだけ耐えられるでしょう?

 

 もし耐えられなければ、「これは正しいことだ」、「自分は本当にそう思っている」という合理化、正当化という心の防衛機制を総動員して、嘘を何重にも塗り固める、という方法だって、用意されています。

 

 (ものごとを決めたり、判断したり、防衛機制で心を守ろうとするのも、無意識的潜在的意識という、心の中に存在する大海のしわざなのですが………。)

 

 

 内奥から響いてくる、声にならない声や、言葉にならない思い、煙のように立ちのぼってくる、確たる理由のない何かを理解したり、待っていたりするだけの余裕を、この社会はもちません。

 

 ものごとの真偽を問わず、とにかく「急いで」理由をつけ、振り返りもせず、ただひたすら走っていくことが、良いとか悪いとかの話をしているのではありません。

 

 人間社会というものが、人間個々人の心を、規格通りの定型の箱に入れ、次から次へと、効率的に処理することを前提としてできあがっている以上、夏目漱石が言ったように、誰もが「涙をのんで、上滑りに滑って」いかなければならないのです。

 

 

 

「たとえ命にかえてでも」

 

 さて、ここからは、再びネタバレになるので、ご注意ください。

 

 完全に「リリー」になれる道をみつけたアイナーは、早速、第一段階目の手術、男性器切除手術を受けます。

 けれども、主治医が言ったとおり、この手術の成功例はまだない時代です。

 

 手術後、「リリー」は、激しい痛みに必死に耐えます。

 

 ただそばにいて、見守るしかないゲルダとハンスも、(そしておそらく「リリー」自身も)、もうこれ以上、手術を受けるのは危険だと、わかっていました。

 

 けれども、彼女の希望は変わりません。

 

 「時が来たの」。

 

 やつれた、蒼白い顔の「リリー」は、とても静かに、喜びをかみしめるようにそう言いました。

 

 そして、第二段階目の手術、子宮形成手術にのぞんだ「リリー」は、ゲルダに寄り添われつつ、死んでいきます。

 

 

 リリー/アイナーを、そこまで駆り立てたものは、いったい何だったのでしょうか。

 

 アイナーは、女装した自分に恋をした、ナルキッソスだったのでしょうか?

 

 あるいは、幼い頃、ハンスからキスされて以来、女性になって男性に愛されたい欲求を、一度は閉じ込めたものの、どうにも止められなくなったゆえでしょうか?

 

 あるいは、ゲルダとの結婚生活の中で、「強くて美しい」彼女への憧れが、知らずに、アイナーの中に、消えない炎を宿すことになったのでしょうか?

 

 いかようにでも、「理由づけ」をすることはできるでしょう。

 

 けれども、本当のところ、リリー/アイナーにも、なぜこんなにも「女性になること」への憧れが、強く自分を引きつけ、自由にしてくれないのか、わからなかったかもしれません。

 

 もしかしたら、「女性になること」は、アイナーの中の、何か、もっと深くて真なる欲求が、たまたまそういう形をとって現れたにすぎないのかもしれません。

 

 

 アンデルセン童話の中の雪だるまは、ちらちら赤い炎を見せるストーブの中へ、入りたくてたまらない衝動に、死ぬほど苦しめられていました。

 なぜなら、彼の身体の芯には、“火掻き棒”があったからです。

 彼は、それを知らないまま、溶けて消えてしまいました。

 

 

 何かに強く心惹かれたとき、そこへ行きたい、近づきたい、あるいはそのものになりたいという、どうにもならない、ひどく不条理な衝動に、がんじがらめに絡めとられて、身動きができなくなることがあります。

 

 頭の中は、そのことだらけ、たとえどんなに苦しくても諦めきれず、ときには奇跡を願ったり、あるいは、「リリー」のように、たとえ命を落とすことになっても、このまま、「自分ではないまま」生き続けるくらいなら、と思うその姿に、私は、雪だるまの恋を重ねて見ずにはいられませんでした。

 

 自分の中の、“火掻き棒”がいったい何なのか、雪だるまと同じように、人は、おしまいまで知ることができません。

 

 気まぐれに、真剣に、ゆらゆらゆれて、輝いて見える赤い炎の中に、命などかえりみず、身を投じてしまいたくなるほどの何か。

 

 

 そうしたものは、大抵の場合、その人をひどく苦しめることになるでしょう。

 けれども………。

 

 分厚い雲の層を抜けて、空高く、まっすぐに飛んでゆこうとする、伝説の生きもののように。

 あるいは、遠く懸け離れた何かと何かの間に幻の橋をかけようとする、強い憧れ。

 

 そういうものを、どこかに隠しているのでしょうか。

 

 ならば、たとえ命をかけても惜しくはないと、時に人は、われ知らず、思うものなのかもしれないと、私は思ったのです。

 

 

 

                             《終わり》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Let's Dance

        

        踊れ 踊れ

        お人形さん

 

        この世は

        楽しい ダンスホール

 

        きみは どっち 

 

        ダンサー それとも 

        ダンスホール

 

        ダンサーは もちろん 花がた スター

        どんな 床でも 思いのまま 

        難しい ステップ きめて

        すべるように 華麗に 踊る

  

        ごらん

        彼が 踊る

        ダンスフロアを

 

        おびただしく 連なる しかばねの 山

        ダンサーが ステップを踏み

        ターン きめるたび

        白骨が きしきし 鳴って

        何か 言おうとする

        けれど

        あわれ 骨は 砕け散って

        こなごなに

 

        ダンスホール

        ますます 熱く 盛りあがる

 

        踊れ 踊れ

        お人形さん

 

        呪いを かけられた ダンスシューズは

        止めたくても 止まらない

 

        最期まで

        踊りきれたら

        拍手 喝采          

 

 

 

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『リリーのすべて』(2)ー「わたし」を生かすもの、あるいは、「殺す」ものー

 

雪だるまの“恋”

 

 

 アンデルセン童話の中に、『雪だるま』というお話があります。

 

 雪だるまは、外から見える家の中のストーブが、赤々と、時折、ちらちらと炎の舌を見せながら燃えるのを見た途端、なんとも妙な気持ちになり、胸が張り裂けそうになるのです。

 “彼”を苦しめるのは、ただ一つ、“彼女”(=ストーブ)に寄り添いたい、あわよくば、その中へ入りたい、という衝動です。

 

 悶々と苦しむうちに、やがて、暖かい陽光が、彼を青白く細く弱らせていき、とうとう、雪だるまは、溶けてなくなってしまいました。

 

 雪だるまは知らなくとも、人間なら誰でも知っているでしょう、と、アンデルセンが問いかけるその答えは、“恋”、なのでしょう。

 

 たかが、恋。されど、恋。

 

 火に近づくことが、「死」を意味するにもかかわらず、雪だるまは、それを強く願わずにはいられませんでした。

 

 なぜでしょう?

 

 雪だるまが溶けてしまったあとに残されたのは、ストーブの火掻き棒でした。

 もちろん、彼(=雪だるま)は、自分のからだの芯になっているものなど、知るよしもありません。

 けれども、からだの芯にあった火掻き棒は、自らがあるべき場所を求めて、雪だるまの心を、激しくかき乱し、彼は、わけもわからず、「恋の病」の中で「死んでいった」のです。 

 

 

 

「恋とはどんなものかしら?」

 

 憧れの「憧」、という漢字は、心臓・心を現す忄(りっしんべん)、そのとなりに、目の上に入れ墨を入れられ、重い袋を持たされた奴隷、という成り立ちと意味があるそうですね。

(参考:okjiten.jp/kanji2176.html)

 

 奴隷は、自分よりも立場が上の者から命じられれば、身も心も酷使し、そのためにたとえ命を落としてでも、そのとおりに動かざるを得ない状況におかれたものを言います。

 

 いったいどうして、そのとおりに動かなければならないのか?

 苦しみばかり与えるものならば、やめてしまえばいいものを。

 身の心も、ぼろぼろになり、命さえ奪いかねないようなものに、なぜ、わざわざ危険を冒してまで、近づこうとするのか?

 

 恋、愛、憧れ。

 

 それは何も、恋愛や、性愛だけの問題ではないような気がするのです。

 

 何かに強く心ひかれ、そこへ行かなければならないような、そうしなければ、自分が自分でなくなるような、何か。

 

 たとえ、一瞬でも、一目でも、それを見てしまった以上は、「たとえ命にかえてでも」、突き進むしかなくなってしまう。

 

 やめた方がいいのに、命取りになるかもしれないのに、それをわかっていても、どうにも止められない気持ちや衝動があるということは、アンデルセンが言うように、「人間なら、誰でも知っているのでしょう」。

 

 

 

「アイナー」と「リリー」の間で

 

 ここからは、ネタバレを含みますので、ご注意ください。 

 

 さて、『リリーのすべて』は、実話をもとにしており、夫・アイナーは、性的違和感(今でいうところの、性同一性障害ですね)から、「世界で初めて女性に変身した男」であり、悩み苦しみながらも妻・ゲルダがアイナー(リリー)に寄り添い続ける、というお話です。

 

 1926年のデンマークコペンハーゲン

 いまとは比べものにならないほど、「ジェンダー」と「セックス」が完全一致していることを、男女ともに求められていた時代でした。

 

 アイナーは、個展を開けば大勢の人が集まるほど、風景画家として、世間一般の賞賛を得ていましたが、彼の描く絵は、いつもどこか寂しげです。

 細く頼りない、生気のない木々が立つ景色。アイナーは、その景色を描きながら、ずっと、自分でもよく分からない胸の痛みを感じていたのでしょうか。

 絵の中の、沼の色を決められず、どんな色にしたらいいのか、迷っているのです。

 

 一方で、妻のゲルダ肖像画家なのですが、評価は今ひとつ、画商にも、なかなか絵を買ってもらえません。

 

 ゲルダは、友人の踊り子、ウラの絵を描いていましたが、彼女の都合が悪く、アイナーに、足もとのモデルを頼みます。

 なんともいいがたい気持ちを抱きつつ、ストッキングとバレエシューズを履き、花びらが開いたような白いドレスをあてがうのですが、アイナーは、ドレスの裾からすんなりのびる、ストッキングをはいた脚と、まるで矯正具か拘束具のように、つま先がきゅっとしまった靴を見て、うっとりします。

 

 このとき、アイナーの中で、封印されていた何かが、そっと鍵を開け、二度と戻らない旅に出てしまったことなど、知りもしないゲルダは、アイナーに、女装姿が似合うことを喜び、彼女の絵のモデルの踊り子、ウラは、“彼女”に、自分がもらった白い百合の花束を渡し、「あなたはリリーよ」、と言います。

 

 名前を与えられた「リリー」は、「アイナー」の命とエネルギーが逆流するように、現実的で、確かな存在になっていきます。

 

 はじめは、遊び半分でパーティに連れて行ったり、はしゃいでいたゲルダも、やがてアイナーが本気で「リリー」になろうとしているのを知り、愕然とします。

 

 「アイナーを返して」

 

 それは、アイナーを、自分の身も心もつかって、本当に愛していたゲルダの、悲痛な叫びでした。

 

 アイナーは、男性でいるときにも、優しい、やわらかい色の服しか身につけなくなり、身のこなしやしぐさまで、女性らしくなっていきます。

 

 それを見た見知らぬ男たちは、アイナーをからかい、気持ちの悪い奴だと言って傷つけ、殴りつけます。

 

 ゲルダは、(精神不安定からでしょう)体調の優れないアイナーを助けようと、医師に相談するのですが、つらい放射線治療を受けさせられたり、統合失調症と診断され、あやうく強制的に入院させられそうになるだけでした。

 

 しかし、どんなつらい思いをしても、あるいは、つらい思いをすればするほど、「アイナー」の影は薄くなっていき、「リリー」でいる時間が長くなっていきます。

 

 一度だけ、ゲルダのために、アイナーの姿に戻りますが、それは、自らの想いに反した行為であり、顔色は青白く、まるで幽霊のように生気のない姿でした。

 

 もう、愛する夫、アイナーは、戻らないかもしれない。

 苦悩するゲルダは、過去、アイナーにキスしたというアイナーの幼なじみの男性、ハンスに相談します。

 

 そして、単に女装するだけではなく、身も心もリリーに(女性に)なりたいというアイナーの思いを理解し、手術という解決策を示してくれる医師に出会います。

 

 けれども、まだ性別適合手術の成功例のない時代、その道のりは、大変な危険に満ちたものでした。

 

 それでも、リリーは、「アイナーを完全に消す」ことを望み、ゲルダは、夫を失うことに動揺と葛藤を感じながらも、アイナー/リリーのそばに、寄り添わずにはいられないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

涙の お池

 

 

       おなかが すいた

       ハンプティ・ダンプティ

       小さな お庭の

       塀に 座って

 

       食べもの といえば

       自分の 涙 だけ

 

       くる日も くる日も

       ひっきりなしに 

       泣き続けた ものだから

 

       涙は やがて

       小さな お池に なった

 

       ある朝

       まぶしい 太陽と

       真っ青な 空が

       お池に 映って

 

       ハンプティ・ダンプティは 言った

 

       「ねぇ そっちの世界は

       きっと きっと

       きれいで 美しくて

       楽しいんだろうね

       泣いてばかりで お腹がすく

       こっちよりも

       ずっと ずっと」

 

       見とれて 見ほれて

       ハンプティ・ダンプティ

       お池 めがけて

       ぼちゃん と 落ちた

 

       こわれもの の

       からだは こなごな

 

 

       ハンプティ・ダンプティ

       あっちの世界に

       いけたかな

       いって しあわせに

       なれたかな

 

 

 

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「メンドクサイ」

 

 

 

       「ねぇ めんどうに なったんでしょ あたしのこと

       あたしだって あたしのこと めんどくさい もの」

 

        けだるそうに 目をほそめ むくれて

       窓のそと 行き交う人を

       見るともなしに 見ている きみの

       白い 頬が まぶしい

       斜陽の いたずら

 

       「だから もう いいじゃない」

 

       何が 「いい」 んだ

       おわり ジ・エンド ってことか

 

       ほんとうは いつも 口も開かず “助けて”と

       言ってる くせに

 

 

       ああ そうだよ

       めんどくさいね

 

       窓のそと 通り過ぎてく

       ばらばらの たくさんの人も

 

       気づかずに すむはずの

       窓ガラスについた 手あかや 汚れが

       光のせいで 目立つのも

 

       あと少し 残った 

       苦くて 冷たい コーヒーも

 

       みんな みんな めんどうだ

 

       どこか 山奥へ行って

       ぜんぶ ぜんぶ ぼくごと 投げ捨ててしまえたら

       どんなに いいだろう

 

       なのに

 

       ふところに 飛び込んできた 

       ぴーぴー 鳴く 小鳥の

       生きものの ぬくもりに すがっていたい

       ぼくが いちばん めんどうだ

 

       どうせ 死んで しまうのに

       淋しいままで いたくない

       こわがりで 淋しがりな

       ぼくが いちばん めんどうだ

 

       すんでの ところで ぼくを ひきとめる

       ぼくが いちばん めんどうだ

 

 

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「息を して」

 

       熱く 冷たい 砂浜を

       ただ ひたすらに かけていく

       足を とられ

       息を 切らし

 

       高く 深い 砂丘

       ただ ひたすらに もがきつづける

       のぼっているのか 落ちているのか

       わからずに

 

        「こころ」「からだ」「たましい」

       呼び名など どうでもいい

 

       ただ

       あなたの その頬に

       脈打つ 血の 鼓動に

       ふれたい

 

       その 一心で

 

       深く うずめられた

       かすかな 息の あたたかさ だけを

       たよりに

 

       落とした涙も 足あとも

       砂と 風が

       一瞬にして

       吹き飛ばして しまう

 

       時の砂の 呪縛から

       あなたを 掘り出し

       けんめいに 砂を払う

 

       どうか わたしと

       生きて

       息を して

 

 

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『リリーのすべて』(1)ー「自分」でいようとすることが、どうしてこんなにも難しいのかー

 

「ごめんなさい」「すみません」は、最大の防御

 

 

  つい、一週間ほど前のことでした。

 

 バスの中で、女子大生が2人、そこそこの声量で(少なくとも、車内の人全員に、話の内容がすっかりわかるくらいの)、(マスクをして)、おしゃべりをしていました。

 

 「コロナのせいで、1年の時みたいに(ということは、大学2年生ですね)、自由に友だちと会ったり、ごはん食べに行ったりすることもできなくて、さびしい」

 

 「実家に帰るのは、いつも楽しいけど、いまは、こっちにいても一人だし、なおさら帰るのが嬉しくて、でもそれだけに、こっち戻ってこなくちゃならないのが、淋しくて、淋しくて。戻る二、三日前くらいから、もう、悲しくて」

 

 「家だと、お母さんがつくるあったかくておいしい食事食べて、みんなで話したりして、楽しいのに、こっち戻ると一人だから……」

 

 隣に座っている友だちは、しきりに、ああ、わかるわかるー、すごくわかるー、そうだよねー、と、心から共感している様子でした。

 

 「親の前で、泣く?」

 「ううん、泣かない。心配かけるし」

 「そうなんだ……。私は、泣いちゃう」

 

 そのとき、私は、思いました。 

 

 ……ああ、少なくともいま、互いに、ほんの束の間でも、淋しさを分かち合えて、よかったね、と。

 

 

 けれども、そのうちに話題は変わり、今度は、地元の方言のおかしさ、面白さの話になって、声量も上がり、笑い声も増えて、さらににぎやかになりました。

 

 その最中、一人の中高年女性が乗車してきました。

 

 運転手さんが、「新型ウィルス感染防止のため、車内でのおしゃべりはご遠慮ください」、と放送を流しましたが、彼女たちには、届いていないようでした。

 

 なんか、空気がぴりぴりしてきたな……、と、思ったときでした。

 

 さきほど乗車してきた中高年の女性が、席を立って、つかつかと、2人の女子学生のところへ行ったかとおもうと、鋭い声で、一言、言いました。

 

 「うるさい」

 

 女子学生は、黙りました。

 

 運転手さんは、その女性の声にかぶせるように、再度、先程と同じ文句を繰り返しました。

 

 「何とぞ、何とぞ」、という前置きを加えて。

 

 運転手さんというのは、とりあえず、そのバスの最高責任者ですし、「オマエ、ちゃんと注意しろよ」、という、客からの無言の圧力を、ずっと感じていたのだと思います。

 

 私もまた、「淋しさ」を分かち合うような話をしているときには、「よかったね」、と思いましたが、方言の話が盛り上がるにつれて、正直、耳障りだと感じるようになっていたのです。

 

 中高年女性が注意した瞬間、バスの中の緊張感は、最高潮に達し、そこから急激に、何かが急降下していったような気がしました。

 

 空気感が、その前後で、がらりと変わりました。

 

 私は、何か、ちょっとした騒動を目撃したときのような興味好奇心、そして、このできごとが、今後の彼女たちに、どんな影響を残すだろう、という気持ち、それに、中高年女性の声が、つららみたいに冷たく尖っていたので、自分の胸にまで、少し、刺さったような痛みも感じました。

 

 あるいは、彼女もまた、女の子たちの淋しさを聞いていたら、違っていたのでしょうか?

 

 いずれにしろ、解決しなければならないような、放置してもいいような、どっちつかずの問題が「片付いた」バスの中は、平穏に戻っていました。

 

 女の子たち二人は、降車するとき、運転手さんに、謝っていきました。

 

 ふと、思いました。

 

 謝らなければならないほど、悪いことをしてもいないのに、場の圧力によって“謝らせられた”人間は、おそらくその後、人間と人間社会への心の持ち方やかかわり方を、少し辛い方へ、少し“淋しい”方へ、軌道修正してしまうのだろうな、と。

 

 

 「ごめんなさい」、「すみません」、という言葉は、相手を黙らせます。

 それが自分の責任である、と認めて謝る人を、誰もそれ以上責めようとはしないでしょう。

 そしてそれは、謝罪を迫る人への“復讐”でもあると思います。

 

  以後、本心は、決して言うまい。

  私が本当は何を考えているか、どう思っているのか、私が本当はどういう人間であるかなど、決しておしえてやるものか。

  私は、おまえに対して、いつも、くもりガラスでいることにしよう。

  おまえは、おまえの姿を、私という鏡に映して知る機会を、永遠に失うのだ。

  ざまあみろ。

  ……………。

 

 

 

 ほんの短い間に、ころころ変わった自分の気持ち。

 たった一台のバスの中で繰り広げられた、たくさんの糸のもつれと駆け引き。

 乗客それぞれのなかに、渦巻いていた感情。

 

 

 帰り道、目的地のバス停で下車した頃には、あたりはとっぷり、暮れていました。

 

 私は、なんとはなしに、疲れを感じて、あと少しの道を、家へと急ぎました。

 

 

 

この上なく危険な、「私」さがしの旅

 

 このご時世、何でもかんでも「自己責任」、コロナにかかったのも「オマエの気のゆるみのせいだ」、「謝れ」、などと、本当のところ、どれほどの人が、まじめに本気でそう思っているのかは知りません。

 

 あの女の子たちのように、本当は、謝らなければならないほどのことをしてもいないのに(謝りたくもないのに)、「謝れば」場はおさまり、謝らなければ、もっと責められて、つるし上げをくらうのかもしれません。

 

 ずっと以前、私は、気を遣いすぎる上にもさらに念入りに気を遣う若い男の子に、「どうしてそんなに気を遣うの?」と、きいたことがありました。

 

 すると、彼は言いました。

 

 「あとでよけい面倒なことになるのを防ぐために、いま少しの面倒を我慢するんです」

 

 矢が、胸のど真ん中に刺さったような気がしました。

 

 

 

 人は、日常、自分で自分の感情や、行動の理由を意識もせず、あまり考えもせず、やり過ごしています。

 

 けれども、そのなかで、どうしてかわからないけれど、“そうせずにはいられない”ような、強い感情が湧きあがったり、ある行動に駆り立てられたりするとき、そこに、「自分」を感じるのかもしれません。

 

  ですが、この世は、あのバスの中に象徴されるように、たくさんの人の、たくさんの感情やその理由、事情や状況、利益不利益が、細い糸のように絡み合っていて、とてもではありませんが、自由には動けません。

 ほんの少しでも動けば、その糸で、どこかを切って血が出るか、悪ければ、首を絞めることにもなってしまうことでしょう。

 

 その「糸」で、何度も痛い思いをするうちに、人は、遅かれ早かれ、自分の天然自然をそのまま表に現せば、この世界に受け入れられないことを知り、どこかで妥協し、あきらめ、折り合いをつけていくのでしょう。

 

 それが、この世を、「この世にふさわしい人」として生きる術だからです。

 

 

 けれども、それでも、「あきらめきれない」何かを、どうしても放せない「私」がいたら?

 

 その道は、世界のどこかへ出かけていき、素晴らしい絶景を見たり、稀少なものを見たり、味わったり、いろいろな人と出会ったりして見聞を広めるような、「素敵に美しい」自分探しとは、似ても似つかないものになることでしょう。

 

 

 絡み合う細い糸は、いばらのトゲになり、あるべき「私」へ向かって、懸命に手を伸ばす「私」を容赦なく傷つけ、いずれ、その命さえ奪ってしまうかもしれません。