他人の星

déraciné

『パラサイト 半地下の家族』(3)―「悪」もなく「善」もなく―

 

 

 

 ここからは、大いにネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 さて、めでたくパク家に全員が職を得たキム家は、パク一家が息子ダソンの誕生祝いのキャンプに出かけたのをいいことに、パク邸の居間を占拠し、酒盛りを始めます。

 

 そして、この夜、予期せぬ事態が起こります。 

 

 キム家が策略と連携プレーによって追い出した元家政婦ムングァンが、「忘れ物をしたから」とたずねてきたことにより、こっそり地下にかくまわれていた夫グンセの存在が、明らかになります。

 

 キム家の素性を知ったムングァン/グンセ夫婦と、キム家は、当然、言い合い、もみ合いのすったもんだの大騒ぎになりますが、パク一家が、激しい雷雨のため、急遽予定を変更し、帰ってくることになり、ムングァン/グンセ夫婦を何とか地下に拘束し、ギテク、ギウ、ギジョンは、パク邸を脱出しましたが、激しい雨は、彼らの半地下の家を浸水させてしまいます。

 

 眠れずに一晩を過ごした3人は、翌朝、うってかわって快晴となった日曜日、ダソンの誕生パーティーをするからと、パク家から非常招集をかけられるのです。

 

 疲れ切ったギテクが運転する車で、パク夫人は上機嫌で買い物をし、「昨日の雨のせいで、今日は、いいお天気」と言いつつ、ギテクのにおいが気になって、窓を開けます。

 

 ダソンのパーティに集まり、飲んだり食べたり、楽器の演奏に興じたりする「優雅な」人々を、カーテン越しに見るギウは、複雑な思いを感じ、隠れてキスを交わしたダヘに、「僕はこの場にふさわしい人間か」と聞きます。

 

 そして、ギジョンもギウも、地下のムングァン/グンセ夫婦と何とか和解しようとするのですが、いずれも失敗に終わり、とうとう、悲劇が起こります。

 

 あの雨の夜のけががもとでムングァンは死に、愛する妻を失ったグンセは、地上へ出て、パーティ会場へ乱入し、ギジョンを刺し、その騒乱と混乱のさなか、ギテクは、自分のにおいに不快さを露わにしたパク氏を刺し殺してしまうのです。

 

 

 

悲劇は、“機械仕掛け”で

 

 

 ギテクは、作中、見られるように、とても温厚な人物です。

 家族ともども世話になったパク家の人々に危害を加えたり、不幸のどん底に陥れようとか、そういうつもりもまったくありません。

 本人自身、何が起きたのか、よくわかってすらいないのです。

 グンセと交替するように、地下に潜んで暮らすようになってからは、パク氏を殺してしまったことを、ひどく悔いています。

 

 また、ギジョンを刺し殺したグンセもまた、妻ムングァンを愛し、パク氏を「リスペクト」していました。

 富裕なパク家の人々も、とても善良で、誰かを陥れようとか、害を及ぼそうとか、そうした“悪だくみ”とは無関係な、優しい人々です。

 

 ギテクの妻、チュンスクが、「私だって、金持ちだったら、もっと優しくなるよ」と言ったとおりなのです。

 

 よく、「いじめられっ子は、いじめっ子になる」と言います。

 人は、自分がされたように、(特に、ひどいめにあっていれば、復讐のようにして)相手にも、同じようにする傾向があります。

 

 そこそこの権力や経済力、地位に恵まれた人が、往々にして「好人物」なのは、誰かに虐げられたり、ひどいめにあわされたことが少ないからなのかもしれません。

 パク家の人々が、やすやすと人を信用するのも、疑心暗鬼になって、人間不信に苦しむことなどないからでしょう。

 加えて、経済的余裕は、心の余裕につながりますから、ちょっとやそっとで心がささくれ立ったり、脆弱になったりすることも少ないでしょう。

 

 ただ、「生活の悲哀」というものを知りませんから、たとえば、大雨などの災害で住む場所を失うことがあるなど、思いもしませんし、そうした人たちの気持ち(そういう人たちが一体何に苦しみ、どんな挫折を味わうのか)にも鈍感なだけなのです。

 

 

 

 実は、『パラサイト 半地下の家族』と前後して、『ジョーカー』も見たのですが、この点において、両者は、好対照をなしていました。

 

 『ジョーカー』では、人を殺し、罪を重ねていく彼を、彼の過去のトラウマと、いまなお虐げられ続けている状況、その加害者は、富裕層や“エリート”たちである、という流れをつくり、「ジョーカー」を、正義のヒーローにまつりあげてしまい、少なくとも、私にとっては、面白い映画ではありませんでした。

 

 誰かを悪に、誰かを善に、仕立て上げることで、観客の同情や共感を乱暴に呼び込もうとする構図が、皮肉にも、アメリカ社会の分断の深刻さを象徴しているようにも思えたのです。 

 

 

 それに対して、『パラサイト 半地下の家族』には、絶対的に悪い人間も、善い人間も、登場しません。

 

 悲劇は、その階段を、一段たりとも踏み外すことなく、用意周到に準備されていったのです。

 

 例えば、大雨の翌日、キム家がパク家から招集されることなどなかったら?

 

 住居を奪われ、ほとんど眠れず、疲れ切っていたギテクの車で、「昨日の雨のおかげで今日はいいお天気」などと、パク夫人が言わなかったら?

 それと同時に、ギテクのにおいを逃すために、車の窓を開けなかったら?

 

 着る服すら雨で奪われたキム家の人々に対して、ありあまるほどたくさんの服を持ち、さらに買い物をするパク夫人の姿など見ていなかったら?

 

 何の邪魔も入ることなく、ギジョンが、あるいは、ギウが、ムングァン/グンセ夫妻と和解するのに成功していたら?

 

 ダソンを、(お姫様役のギジョンを救う)ヒーローにするという(馬鹿げた)寸劇のために、パク氏とともにインディアンの扮装をし、疲れと不安によって、傷つきやすい状態にあったギテクが言った、「でも、奥様を愛しているのですから、仕方がないですよね」の言葉に、パク氏が事務的に「これは仕事だ。給金も払うのだから」と言わなかったら?

 

 そして、パク氏が、ギテクのにおいに不快感と拒絶感をあらわにしなかったら?

 

 

 そうです。

 あの悲劇が起こるまでに、細かな手続きが、一つ一つ、やり損じられることなく、入念に用意され、ギテクを追い詰めていった、ただそれだけなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月の空

 

 

       「すみません」 という 言葉を

       その場しのぎの 言い逃れ みたいに

       何度も 何度も

       言っている うちに

       いつしか 何の 味も しなくなる

 

       「すみません」

       すみません って 何だっけ

 

 

       「ありがとう」 という 言葉を

       背筋に 寒気がはしるほど

       ほんとうは 言いたくも ないのに

       幾度も 幾度も

       言っている うちに

       いつしか あたたかい も つめたい も

       わからなくなる

 

       「ありがとう」

       ありがとう って 何だっけ

       

        

       阿呆のように 口をあけていると

       冷気が 口から入って

       胸に つららの 洞窟ができる

 

       

       遠くに見える 山々の

       空の上には 分厚い雪雲

       冬の天気は きまぐれで

       澄み切って まぶしい空の青も 

       すぐに 消え去り

       薄ねず色の 空から 雪が舞うのだろう

       

       はるか上空

       かなしい声で 鳴きながら

       白鳥たちが 列を組んで 飛んでいく

       すっきりと うつくしい

       「く」の字を 描いて

 

       一瞬

       白い羽に透けて 青空が 見えた

 

       ああ いま きれいな まぼろしを見た と

       思った 瞬間

       うすく うすく 綿をちぎって 流すように

       ゆっくり ゆっくり 雲がひろがり

       ちら ちらと 雪が舞いだす

 

       あとに 残った 静寂に

       ひとり 思う

 

       白鳥たちの かなしげな 声

       あれだけは ほんとうだ 

       「かなしみ」だけは

       きっと ほんとうなのだ と

 

       

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『パラサイト 半地下の家族』(2)―自立?-

 

 

 「めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、なんだか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。」

                         ―太宰治人間失格

 

 

 少し前に、知り合いから聞いた話です。

 

 ある精神科に通院する主婦が、医師に、こう訴えたらしいのです。 

 「これから毎日、お弁当をつくらなければならないと思うと、死にたくなるんです」

   医師は、もちろん、本人の前ではそんなことは言わないでしょうが、別の患者である彼女へ向かって、ハハハ、とおかしそうに笑いながら、言ったそうなのです。

 「そんな患者もいるんだよ」

 

 彼女の表情は、かなしげにくもっていました。

 「わたし、その人の気持ち、よくわかるから…」

 

 精神科医、というのは、職業上、負のオーラをまとった人たちの話をどっさり、次から次へと聞いて、それにふさわしい薬を処方しなければならないのですから、いちいち共感したり同情したりしていたら、仕事になりません。

 心の治療専門家?ゆえに、心の問題に対して鈍感にならざるを得ない、という矛盾が生じてしまうわけです。

 ですが、その主婦に共感した彼女にしたら、自分の苦悩を否定されたような気がしたのだろうと思うのです。

 

 

 私も、よく、考えます。 

 生活。生活って、何でしょう?

 生活。生命を維持するための、あらゆる諸活動、でしょうか……。

 

 せっかくこの世に生を受けたのだもの、大切に生きなくっちゃ、などと、簡単にいえども、命ある限り、生活は、待ったなし、問答無用で襲ってきます。

 

 たとえ、大きな災害があっても。どんなに大切なものをなくしても。

 大切な人に、死なれても。

 

 生命を維持するためには、最低でも、食べ、眠り、排泄しなければなりません。

 そして、「健康」を心がけ、生をなるべく長引かせようとするのなら、なおさら、生活に気を配らなければなりません。

 食事は、栄養バランスを考えて、規則正しく三度。

 睡眠の量と質、排泄の量と質は?

 

 そうして、「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ」のです。

 

 要するに、最低限、生命を維持するにしても、生活を、なるべく安楽に心地よくするにしても、「ぜに」がなければだめなのです。

 そうして、「ぜに」を得るに、多くの人は、労働しなければなりません。

 

 

  ふん、そんな、生活の垢にまみれた人生なんて、ごめんだね!

 愛。それこそ、わが命を捧げるにふさわしい!

 

 ……などという人は、おそらく、(ロックスターのように)、遅くとも、27歳くらいまでに死んでしまうことでしょう。

 (逆に言えば、そうした短命のロックスターたちはつまり、“愛のみに生きた”人たちだったのでしょう、超絶カッコイイ~!!)

 

 かっこよくありたい、と憧れつつ、結局凡庸、フツーな(のラインにも達していない)私のような人間は、意味もわからず、「命」という“聖火”をともすトーチの重さに息も絶え絶え、でも、死ぬのもこわいので、そのトーチを捨てることもできず、ひいひい言いながら、たとえ鈍足でも、かっこわるくても、みじめでも、走り続けるしかないのです。

 

 

 毎朝、子どもと夫を送り出さなければならないであろう、その患者であるところの奥さんは、精神的に参っているにもかかわらず、青息吐息で、毎日、懸命に、お弁当をつくる。

 それも、白飯に梅干し一個の日の丸弁当とかじゃダメ。

 彩りもきれいに、バランスよく。(当世風に、見た目にも気を配って、いわゆるキャラ弁とか)。

 

 考えただけで、倒れそうです。

 

 

 『人間失格』で、葉蔵は、他の人の気持ちをはかりかね、輾転します。

 「めしを食えたらそれで解決できる苦しみ」、そんな、プラクティカルな悩みこそが、実は、自分などにはわかりっこないほど、最強の苦しみなのか?

 「しかし、それにしては、良く自殺もせず、発狂もせず」、「屈せず生活のたたかいを続けていける」、他の多くの人は、「道を歩きながら何を考えているのだろう、金?まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という言説は聴いたことがあるような気があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……」…………。

 

 彼は、自分以外の他の人が、いったい何を考え、何に苦しんでいるのかがわからないために、隣人と何を話したら良いのかもわからず、孤独の淵に沈み込むしかないのです。

 

 

 

 「自立」はお金で買える

 

 さて、話を映画に戻します。

 

 人はそれぞれ、異なる精神的身体的特徴をもっており、それゆえ、得意不得意や、向き不向きがあります。

 

 たとえば、あの大きい素晴らしい豪邸に住むパク夫人は、料理があまり得意ではなさそうです。

  けれども、彼女には、夫が稼いでくるお金がどっさりあるので、先々の生活の不安などこれっぽっちも感じる必要はありませんし、そのどっさりあるお金で家政婦を雇い、食事の支度をしてもらっています。

 むろん、炊事だけではありません。彼女は、お金があるおかげで、洗濯も、掃除も、ゴミ捨ても、自分でやる必要がありません。

 移動手段にしても、運転手がいるので、自分で車を運転する必要もありません。

 つまり、お金さえあれば、身辺生活の自立は、他の人がほとんどすべて引き受けてくれるのです。

 

 これが、炊事洗濯掃除ができないフツーの人は、「社会的に自立できていない」と、批難され、ゴミ捨てができなければ、社会のメーワク「ゴミ屋敷」などと言われるでしょう。

 

 たとえば、先にあげた主婦でも、もしお金があるのなら、毎朝のお弁当も毎日の食事も(しかも彩りも栄養バランスも素晴らしいものを)、家政婦につくらせればよいのですし、それで誰かから「自立していない」などと批難されることもなければ、精神科医に笑われたりすることもないのです。

 

 つまり、このご時世、炊事洗濯掃除、その他、生命を維持するための諸活動=生活を、たとえそれらについては幼児同然、何もできずとも、お金さえあれば、人並み、あるいは、人並み以上に「自立」しているとみなされるのです。

 

 自立、イコール、「経済的自立」とは、まさにそのとおりで、生命を維持するための諸活動を、すべて自力で行っているかどうかという内容の問題ではないのです。

 

 

 よく、災害の被災者や犯罪被害者に対して、「心のケア」が重要だ、などといわれますが、本当に必要なのはお金のケアであって、それは、実に都合のいいすり替えになっていないかと、私は常々思っています。

 

 生活の自立は、とても“プラクティカル”な問題なのに、ここだけ急に“心”をもちだしてくるのは、あまりに不自然すぎる、と感じるのは、私だけでしょうか。

 

 被災者や被害者を元気づけ、明日の生活に立ち向かう力を与えるのに、お金は相当な威力を発揮します。カウンセリングや向精神薬などよりも、ずっと。

 

 何せ、お金さえあれば、先々の不安や、襲いかかってくるまったなしの生活から防御してくれる、立派な盾を買えるのですから……。

 

 

 

 

 

 

 

 

鉛の兵隊

      

       

       光から わが身を 隠さんがため

       迷彩服 着た すれっからし

       指で 空を 四角く 囲う

       だだっぴろい 空 など 無用の長物

       

       腹いせに

       高く うつろな 尖塔を

       いくつも いくつも

       空へ 突き刺す 

       まるで 太陽でも 砕ける ような

       轟音 爆音 鳴らせば

       天地を 支配した ようで

       気分もいい

 

       靴ひもを きゅっと 結び

       口もとを きゅっと 引き締め

       背のう 背負って 出かけていく

 

       「諸君! コレ ハ 有事ノ 際ノ 訓練 ナリ!

       ワザワイ ヲ 未然ニ 防グ 為ノ 鍛錬 ナリ!」

 

       おたけび あげて 刀を 振りあげ

       ケモノ に 見立てて ヒト を 狩る

 

       「サァ ケモノ ヨ イマワシイ ケダモノ ヨ

       汚レタ 血ノ 最期ノ 一滴マデ 啜ッテヤロウ」

      

       ものかげで 舌なめずりして 狙い さだめる

 

       みるみる うずたかく 連なる しかばねの 山

       しゅうしゅう と のぼり たなびく 煙

       鼻をつく 死臭が 漂う 四面楚歌

 

       鉛の 兵隊

       奈落の 底まで 大行進

 

       誰も 誰も

       いなく なる まで

 

 

 

      

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『パラサイト 半地下の家族』(1)ー人間の価値?ー

 

ワインの価値は

 

 

 「つまり、人間はラベルなんだよ。一流のビンテージなら、一流の人間に飲まれ、安いビンテージなら、安い人間にしか相手にされない」

 「そうかな。たとえこれが1000円の安いワインだったとしても、12万円だって言われたら、みんな、ありがたがって飲むんじゃないか」

 「それはつまり、貼ってあるラベルさえ立派なら、中味なんて安物でも、それなりに見えるってことか」

 

 1999年に放映されたドラマ、『危険な関係』(井上由美子脚本)第1話の中で交わされた会話です。

 豊川悦司演じる主人公、魚住新児は、タクシードライバーをしていますが、ある夜、偶然にも、新児のタクシーに、高校時代の同級生、都築雄一郎(石黒賢)が乗車してきます。

 高校時代、新児と雄一郎は、同級生でした。

 当時、勉強のできなかった雄一郎は、一流企業を経営する親の後を継ぎ、いまではすっかりエリートの一員、という顔をしています。

 それに対して、高校生の頃成績優秀だった新児は、今では、毎朝、自分で淹れたコーヒーをボトルに入れ、仕事の合間にそれを飲むことをささやかな楽しみとするタクシードライバーであり、二人の間の、地位と財産の格差は、歴然としているのです。

 

 雄一郎は、現在の自分の“一流ぶり”を、これみよがしに新児に見せつけ、宿泊先の高級ホテルに、まるでボーイのように、仕事中の新児をつき合わせ、ワインを飲みつつ、話をします。

 雄一郎が、男はラベル(着ている服や財産、地位、他者からの評価)で決まると言うのに対して、新児は、“一流”のラベルさえ貼ってあれば、人は容易に騙され、ありがたがりさえする、と主張するのです。

 

 そして、この直後、ある“事件”が起き、物語が展開していくのですが……。

 

 

 映画『パラサイトー半地下の家族ー』を見た後、私はなぜか、今から21年も前のあの頃、毎週のように楽しみにしていたドラマ『危険な関係』を思い出したのです。

 

 

 

異種の“におい”

 

 

 半地下の狭い住居に住むキム家の4人(父ギテク、母チュンスク、息子ギウ、娘ギジョン)は、定職に就けず、内職で何とか食いつなぐ貧しい生活を送っています。

 

 そこへ、転機がやってきます。

 

 息子ギウの友人で名門大学に通うミニョクが現れ、自分が留学する間、ギウに、代わりに、裕福なパク家の娘の家庭教師を頼みたいと言います。

 

 ギウは、大学受験に失敗し、浪人をしてはいますが、十分な能力を持っており、妹のギジョンは、デザイナー志望で、その優れた技巧を用い、ギウの身分証明書を偽造します。

 (しかし、人のいいパク夫人は、他でもない、ミニョクの紹介なら間違いない、と、ギウの身分を疑いもしないのですが)

 

 こうして、ギウがパク家の娘ダヘの家庭教師になったのを始めとして、次に、パク家の息子ダソンの絵画教師兼アートセラピストとして、妹のギジョンが、さらに、むかしの経験を生かし、父ギテクはパク家の運転手に、そして、もとはハンマー投げのメダリストだった母チュンスクは、(もといた家政婦追い出し作戦も成功して)、家政婦にと、人を疑うということとは無縁のパク家の人々のおかげで、一家で“就職”が決まるのです。

 

  ただ一人、息子のダソンだけは、キム家に共通する“におい”を、敏感に察知するのですが、そんなことは、まったく問題にもならないほど、パク家の人々は、純粋なのです。

 この“におい”こそが、物語の結末を、ヘルタースケルターのように、地獄の底まで真っ逆さまに突き落とすきっかけになるのですが………。

 

 そのにおいというのは、つまり、「半地下」に住む人たち特有のものであり、それは、冒頭の『危険な関係』でいうところの、新児の着ているタクシードライバーの制服であり、雄一郎が着ている立派なスーツであり、つまり、ワインのボトルにつけられた“ラベル”の一つであるわけです。

 

 ところが、その中味は、といえば、高校時代、新児は優等生であったように、パク家の人々の経歴や業績、能力も、決してひけをとるようなものではありません。

 

 ギウも、ギジョンも、それぞれ自分の能力を十分に活かし、誰が見ても、落ち着き払った、ごくまっとうな教師であり、ギテクの、運転手としての手腕、チュンスクの、家政婦としての手腕も、その地位には十分ふさわしいのです。

 

 

 

 

人は、人に、ラベルを貼りたがる

 

 

 「つまり、人間はラベルなんだよ。一流のビンテージなら、一流の人間に飲まれ、安いビンテージなら、安い人間にしか相手にされない」

 

 人間社会の現実は、雄一郎が言ったとおりなのだと思います。

 

 「たとえこれが1000円の安いワインだったとしても、12万円だって言われたら、みんな、ありがたがって飲むんじゃないか」

 

 新児が、この台詞で言いたかったのは、実際にはそれほど価値のないものであっても、世の中や誰かが、「価値がある」という“ラベル”さえ貼れば、みんな、「ありがたがって」あがめ、あやかろうとし、それを手に入れさえすれば、自分の価値までも上がったような気持ちになる、人間は、そういうものだ、ということだと思うのです。

 

 実際、人間は、気力や体力、精神力、あるいは、特に、高いお金を払ったものに対しては、「これは良いものだ」と思い込もうとする性質があります。

 心理学では、「認知的不協和」と言うそうです。

 高いコストを払って、ひどく苦労してまで、やっと手に入れたものが、こんなくだらないものだった、などという、「釣り合わない感」は、心理的に実に不愉快なため、無意識に、自らの本心や本音を偽ろうとするのです。

 

 

 映画の中で、象徴的に使われていた、あの立派な山水景石もまた、「財運と合格運」のお守りとして、ミニョクからギウへ贈られますが、価値が分からない人にとっては、ただの石です。

 

 人は、この世に存在するあらゆるものに価値づけをし、系統立て、それによって、世界や社会を秩序立て、コントロールしようとします。どんなことでも、比較によってしか判断できないため、そうでもしないと、ものごともできごとも、何も判断、選択することができなくなってしまうためです。

 

 その技法を、人間を判断するときにも、当然、用いるわけです。

 そうして、ひとたび、“ラベル”(レッテル)を貼られれば、よほどのことでもない限り、張り替えられることは、ほとんどないのではないでしょうか。

 

  一度決めたものを、迷ったり悩んだりする暇を、多くの人間は、もっていません。

 なぜなら、たった一日を、ごくふつうに生活するだけでも、人は、たくさんの情報を処理し、山ほど課題を解決しなければならないからです。

 

 

 ですから、その人間に、どんな“ラベル”が貼ってあるかで、他者からどんなふうに見られるか、大きな影響を受けざるを得ず、一度ついてしまった“イメージ”を払拭することも、とても難しいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

bus stop

 

 

       ぼくは ひとり

       誰も 乗っていない 深夜のバスに ゆられている

       雨や 風に さらされて

       守るべきものも 何も なくなった

       破れて 疲れた ビニールハウス みたいに


       バスは  

       闇の中を まっすぐ 走っていく

             

       ねぇ きみは いつも ぴかぴかで

       いつも 目的 めがけて

       迷わず 走っていくんだね

  
       けれど このぼくに

       目的など あった ためしがない

 

       ほんとは どこで 降りても よかったんだ

       ほんとは もう 降りたいんだ ここで

 

       きみは バス停から バス停へ

       決められた道を 脇目もふらず

       まっしぐらに 走っていく


       いまでは もう 思い出せない

       わからない

       ぼくが 来た 道に

       バス停 なんて あっただろうか

 

       この 破れた ビニールハウスから

       そのうち

       胃やら 心臓やら

       化けものやら 怪物やら

       なんか 出てくるんじゃないかって

       不安になる

       

       しょせん

       ぼくが

       乗っていようが 乗っていまいが

       きみには

       何の 関係もない のに ね

       

 

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『リリーのすべて』(3)ーわたしの中の、“火掻き棒”ー

“あぁ、カン違い”

 

 漫画『サザエさん』の中に、とても興味深いエピソードがあります。

 

 カツオくんが、交通量の多い大通りに面した歩道を歩いていると、同じ学校に通う女の子に出会います。

 「ア!! 一組の岡さん」

 岡さんは、言います。

 「アラ このへんはじめてネ 案内してあげる」

 このとき、カツオくんは、自分の胸がドキドキしていることに気がつきます。

 そして、胸の内で、つぶやきます。

 「このむなぐるしさ……はげしいどうき 

じゃァ ボク 彼女を愛してたンだ………しらなかった!!しらなかった!!」

 すると、岡さんが言いました。

 「いき苦しいでしョ!はいきガスの一番ひどい交差点ヨ」

 カツオくんは、ホッとして、声に出さずに言います。

 「だろうな~ 好みのタイプじゃないもン」          

 

 そうです。カツオくんは、とても面喰いですから、カワイイ子にしか、興味がありません。岡さんは、その点からいえば、“カツオくんの好みではない”女の子でした。

 

 つまり、カツオくんは、本当は、ひどい排気ガスのせいで心臓がドキドキしていたのですが、その動悸を、目の前にいた女の子“岡さん”への、今まで気づいていなかった恋心のせいだと、誤って原因帰属してしまったのです。

 

 『サザエさん』には、ずいぶんあとになってから、科学的に解明されたり、説明できるようになった人間の性質について、鋭くえぐり出しているお話があって、しばしばギョッとさせられます。

 作者の長谷川町子さんは、きっと、人間に深い興味をもち、よくよく観察をしていた人なのでしょう。

 

 このエピソードは、後年、認知科学によって明らかになった、人間の感情と行動の関係を、よく現していると思います。

  

 私たちは、何かを選んだり、決めたりしたとき、それは「自分の意志」によるものだと考えます。

 そして、誰かや何かを「好きだ」(あるいは、「嫌いだ」)と感じたとき、「それはどうして?」と理由をたずねられれば、ほとんどの場合、明確な答えが返ってきます。

 

 ですが、それは本当でしょうか?

 

 答えは、「No」……である可能性が高いです。

 目に見えて明らかなものほど、あやしいものはありません。

 

 

 私たちは、家族や友人、あるいは、ぐるりとそれを取り囲む国や社会といったものの中で生きており、その意味では、否応なく、「社会的」に生きさせられます。

 この国では、大人になって働き始めると「社会人」と言いますが、変な言葉だな~と、常々感じていました。

 なぜなら、人間は、オギャーと生まれたときから、強引に「社会」の中に仲間入りさせられる「社会人」だからです。

 

 たとえ一人でいても、引きこもっていても、「社会」はいつもすぐそばにあって、ことの次第によっては、「ヤリをかまえて」、個人を取り囲みます。

 

 何かを選んだり、決めたり、「好きだ」「嫌いだ」と言った場合、私たちは、大抵、すぐにその理由を思いつき、自他に説明することができますが、それは、そうしたことには必ず理由があることが自明となっている社会に生まれたからです。

 

 それは、自分の選択や行動に責任をもたされる、厳しい「自己責任」の社会です。

 

 だからこそ、人間の「意識」は、無理矢理に、理由を捏造することさえあります。

 

 身体の生理的反応が意味する真の原因、自分の行動の、真の理由に、アクセスできないことなど、日常的によくあることなのにもかかわらず……。

 

 心臓のドキドキの本当の理由が「排気ガス」であるにもかかわらず、目の前にいる、決して好みではない女の子を「好き」なせいだと誤解したカツオくんのように。

 

 それは、稀なことでも何でもなく、私たちの社会が成り立つためには、個人が心の中で、気づきもせず、意識もせずに「嘘をつく」ことが、必要なのだと思います。

 

 自分が、どんどん嘘まみれになっていくことに、どれだけ耐えられるでしょう?

 

 もし耐えられなければ、「これは正しいことだ」、「自分は本当にそう思っている」という合理化、正当化という心の防衛機制を総動員して、嘘を何重にも塗り固める、という方法だって、用意されています。

 

 (ものごとを決めたり、判断したり、防衛機制で心を守ろうとするのも、無意識的潜在的意識という、心の中に存在する大海のしわざなのですが………。)

 

 

 内奥から響いてくる、声にならない声や、言葉にならない思い、煙のように立ちのぼってくる、確たる理由のない何かを理解したり、待っていたりするだけの余裕を、この社会はもちません。

 

 ものごとの真偽を問わず、とにかく「急いで」理由をつけ、振り返りもせず、ただひたすら走っていくことが、良いとか悪いとかの話をしているのではありません。

 

 人間社会というものが、人間個々人の心を、規格通りの定型の箱に入れ、次から次へと、効率的に処理することを前提としてできあがっている以上、夏目漱石が言ったように、誰もが「涙をのんで、上滑りに滑って」いかなければならないのです。

 

 

 

「たとえ命にかえてでも」

 

 さて、ここからは、再びネタバレになるので、ご注意ください。

 

 完全に「リリー」になれる道をみつけたアイナーは、早速、第一段階目の手術、男性器切除手術を受けます。

 けれども、主治医が言ったとおり、この手術の成功例はまだない時代です。

 

 手術後、「リリー」は、激しい痛みに必死に耐えます。

 

 ただそばにいて、見守るしかないゲルダとハンスも、(そしておそらく「リリー」自身も)、もうこれ以上、手術を受けるのは危険だと、わかっていました。

 

 けれども、彼女の希望は変わりません。

 

 「時が来たの」。

 

 やつれた、蒼白い顔の「リリー」は、とても静かに、喜びをかみしめるようにそう言いました。

 

 そして、第二段階目の手術、子宮形成手術にのぞんだ「リリー」は、ゲルダに寄り添われつつ、死んでいきます。

 

 

 リリー/アイナーを、そこまで駆り立てたものは、いったい何だったのでしょうか。

 

 アイナーは、女装した自分に恋をした、ナルキッソスだったのでしょうか?

 

 あるいは、幼い頃、ハンスからキスされて以来、女性になって男性に愛されたい欲求を、一度は閉じ込めたものの、どうにも止められなくなったゆえでしょうか?

 

 あるいは、ゲルダとの結婚生活の中で、「強くて美しい」彼女への憧れが、知らずに、アイナーの中に、消えない炎を宿すことになったのでしょうか?

 

 いかようにでも、「理由づけ」をすることはできるでしょう。

 

 けれども、本当のところ、リリー/アイナーにも、なぜこんなにも「女性になること」への憧れが、強く自分を引きつけ、自由にしてくれないのか、わからなかったかもしれません。

 

 もしかしたら、「女性になること」は、アイナーの中の、何か、もっと深くて真なる欲求が、たまたまそういう形をとって現れたにすぎないのかもしれません。

 

 

 アンデルセン童話の中の雪だるまは、ちらちら赤い炎を見せるストーブの中へ、入りたくてたまらない衝動に、死ぬほど苦しめられていました。

 なぜなら、彼の身体の芯には、“火掻き棒”があったからです。

 彼は、それを知らないまま、溶けて消えてしまいました。

 

 

 何かに強く心惹かれたとき、そこへ行きたい、近づきたい、あるいはそのものになりたいという、どうにもならない、ひどく不条理な衝動に、がんじがらめに絡めとられて、身動きができなくなることがあります。

 

 頭の中は、そのことだらけ、たとえどんなに苦しくても諦めきれず、ときには奇跡を願ったり、あるいは、「リリー」のように、たとえ命を落とすことになっても、このまま、「自分ではないまま」生き続けるくらいなら、と思うその姿に、私は、雪だるまの恋を重ねて見ずにはいられませんでした。

 

 自分の中の、“火掻き棒”がいったい何なのか、雪だるまと同じように、人は、おしまいまで知ることができません。

 

 気まぐれに、真剣に、ゆらゆらゆれて、輝いて見える赤い炎の中に、命などかえりみず、身を投じてしまいたくなるほどの何か。

 

 

 そうしたものは、大抵の場合、その人をひどく苦しめることになるでしょう。

 けれども………。

 

 分厚い雲の層を抜けて、空高く、まっすぐに飛んでゆこうとする、伝説の生きもののように。

 あるいは、遠く懸け離れた何かと何かの間に幻の橋をかけようとする、強い憧れ。

 

 そういうものを、どこかに隠しているのでしょうか。

 

 ならば、たとえ命をかけても惜しくはないと、時に人は、われ知らず、思うものなのかもしれないと、私は思ったのです。

 

 

 

                             《終わり》