他人の星

déraciné

薔薇の舟

 

 

        淋しくて たまらない とき

        ぼくは きみの 名を 呼ぶ

        そして 思う

        名前 って べんりだ と

 

        恋しくて たまらない とき

        ぼくは きみに 「愛してる」と 言う

        そして 思う

        言葉 って べんりだ と

 

        でも 違う

        違うんだ

 

        かたち あるもの かたち ないもの

        すべて 言葉に できる なんて

        思いあがってる わけ じゃ ない

 

        

        きみの 名を 呼ぶ

 

        それは いつも ほんの 一瞬

        鮮烈な 色 だけを 残して 消えていく

        ありと あらゆる 何ものかを

        たった 一言

        きみの名で つかまえられる

        気が して

 

 

        「愛してる」 と 

        きみに 言う

 

        ぼくは 生も 死も 越えて

        愛の 永遠を 願う

        けれど それは いつも

        刹那で せつなくて

        かなしくて はかなくて

        美しい ものは こわれやすい と

        ぼく ではない ぼくが

        よく 知って いる から 

  

       

        だから         

 

        この 心臓を 剣で 刺して

        水面(みなも)が あかく 染まったら

        船出 しよう

 

        目の くらむほど

        あかい あかい

        薔薇の 花びらを 散らした 小舟 で

        きみを むかえに 行くよ

 

        だから

 

        もうすこし

        もうすこし だけ

        待っていて

 

        かならず むかえに 行く から

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

『シン・ウルトラマン』(1)

 

 

 「そう、人間の生きる時間にはかぎりがあるし、生きている場所や行動半径にもかぎりがある。

 けれども、夢だけは、現実を忘れさせるほどに飛翔してゆく。

 それは、かなえられることもなく終わってしまうから、まさに“夢”なのだろうけど、人間の生き方をささえてくれる想像力だ。」

 

           実相寺昭雄ウルトラマン誕生』ちくま文庫 2006年

 

 

 ひとは、夢を見る。夢を見ている。

 昼も、夜も、絶え間なく。

 たとえ、意識が忙殺されていても、苦痛や苦悩、かなしみを抱えていても。

 

 ひとの心は、欠けて、いびつなかたちをしている。

 だから、たとえどんなに、“充実している”、“満足している”などと、思ってみても、必ず、どこか、さびしいし、むなしい。

 

 ひとは、“幸せ”、ということばが好き。

 なぜって、幸せな感じがするから。

 でも、幸せって、何?

 それは、実は、だましだまし、自分を生きながらえさせるための、嘘や、口実でしかないのかもしれない。

 

 だから、本当は……。

 

 日常の、何もかもを投げ捨てて、探しにいきたくて、たまらない。

 

 高い、山の上にも。

 深い、海の底までも。

 遠い、遠い、宇宙(そら)の果てまでも。

 

 “わたし”を、まるごと愛してくれる、美しい夢を。

 

 

 

“シン”の意味するもの

 

 “シン・エヴァンゲリオン”、“シン・ウルトラマン”、そして、来年に公開を控えている“シン・仮面ライダー”。

 

 この、「シン」が意味するものって、何なんでしょう?

 

 私は、最初、何となく、新しい、という意味の、「新」、を思い浮かべていました。

 

 でも、それだけではないのかもしれませんね。

 

 たとえば、本当のもの、を意味する、「真」。

 感情や感覚、思考、精神の働きを意味する、心、すなわち、「心」。

 自己と他者を隔てる、かたちある肉体を意味する、「身」。

 そして、万物の創造主であるところの、「神」。

 

 まだまだ、たくさんありますが……。

 

 故・高畑勲氏は、言っていました。

 そこが、他の言語にはない、日本語の面白いところだ、と。

 つまり、読み方を意味する音だけでなく、その音をもつ漢字がいくつもあるので、その組み合わせで、“キラキラネーム”が可能なわけです。

 

 ……『シン・エヴァンゲリオン』のときには、思いつきもしませんでしたが、今回、『シン・ウルトラマン』を観て、私は、そんなことを考えました。

 

 どれもあり、なのかな、と。 

 

 

 

“見返りウルトラマン

 

 美しい、夢。

 そう、美しいのです。

 映画の中で、長澤まさみ演じる浅見弘子が言ったとおり、ウルトラマンは「きれい」で、美しいのです。

 

 私は、『帰ってきたウルトラマン』~の、第2次ウルトラ世代ですが、当時は再放送というのを何度もやっていて、『ウルトラマン』を見ました。

 

 学校では、必ず男子の誰かが、赤白帽のつばの部分を上にしてかぶって、「うるとらまん」になっていましたし、やっぱり男子の誰かが、体操着の襟首部分から顔を出して、「じゃみら」になっていました。

 

 そのくらい、「ウルトラマン」は、私たち子どもの日常にすっかりとけ込んでいて、身近で、親近感のある友だちのような存在でした。

 

 

 けれども、私にとっては、この『シン・ウルトラマン』の、少なくとも、最初の印象は、そうではありませんでした。

 

 映画のポスターを見て、ぎょっとしたのです。

 

 こ、これは………

 “見返り美人”、ならぬ、“見返りウルトラマン”ではないか、と。

 

 少なくとも、私の記憶にあるウルトラマンは、こんなポーズを取ったことはありませんでした。

 

 何というのか、人間っぽすぎるのです。

 

 精神分析創始者フロイトによれば、人は、よく見知った、懐かしい感じのするものに、(そこにあるはずのないような、あるいは、あってはならないような)、新奇の刺激が合わさったものを見ると、「不気味さ」を感じるのだそうです。

 

 ぎょっとした、というのは、つまり、私にとっては“不気味”だった、ということになるのでしょう。

 

 それが映画の宣伝用ポスターになっている、ということは、これが、映画のコンセプトを表す一つの重要な鍵概念、の可能性があるわけです。

 

 

 そして、映画公開されて、約1週間後、私は、この「見返りウルトラマン」について、こう思いつくに至りました。

 

 あれは……

 あの、こっちを振り返って見ているウルトラマンというのは、人間とコミュニケートする意志をもった宇宙人、という意味だったのかな、と。

 

 

 

                                 《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

raindrop

 

 

 

        雨に 濡れる のは 

        嫌い じゃ ない

 

 

        いちど 雨に 濡れたら

        傘 なんて いらない

 

        さあ

        両手を ひろげ

        顔を あげて

        草木の ように

        全身で 受けとめよう

 

        ほほ に ひたい に

        数えきれない

        やさしい キスを

 

        泣きたくても 

        じょうずに 泣けない

        わたしの かわりに

        たくさんの 涙を

 

        ひび割れた 心を うるおし

        熱い 息吹が

        赤い 血潮が

        あふれ出す

 

 

        風の 吹くまま

        身をまかせ 流れゆく

        なまり色の 雲が 織りなす

        空の グラデーション

 

        なぜ こんなにも 愛おしいのだろう

 

 

        雨に 濡れる のは

        嫌い じゃ ない

 

 

        わたしが 

        草の 葉のなかで

        花が 咲くのを 待っていた 頃の ことを

 

        どこかの 土のなかで

        安らいでいた 頃の ことを 

 

        風を 愛した 

        大海の 一滴 だった 頃の ことを

 

 

        ほんの 一瞬

        思い出して

        懐かしく なる から 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『象は静かに座っている』(6)

 

 

 高校生の少年、ブー。

 その同級生の少女、リン。

 ブーと同じ共同住宅に住む高齢男性、ジン。

 そして、炭鉱業が廃れ、世界から忘れ去られた、小さな田舎町の不良グループのリーダー、チェン。

 

 ビリヤードに例えるならば、彼ら4人の運命の球は、あちらへ突かれ、こちらへ突かれ、それぞれが、思わぬ場所へと、転がっていきます。

 

 

 ここで重要なのは、彼らが、誰一人として、その運命や結末を、自ら望んだわけではない、ということでしょう。

 

 

 何もかもが、思いどおりにならない、「こんなはずではなかった」自分の人生の行く末を思うことにすら、疲れてしまったかのような、彼ら4人の目は、共通して、不思議に落ち着き払っているのです。

 

 この世への失望と怒りを放出した後、(少なくとも、現時点では、不良集団のリーダーという居場所のあるチェンを除いて)、ブー、リン、孫娘を連れたジンは、丸腰のまま、心に浮かぶ、たった一つの目的地へ向けて、動き出します。

 

 それが、満州里の動物園で、一日、何もせずにただ座っている象を見に行くことなのです。

 

 この「象」が示しているものは、いったい、何なのでしょう?

 

 

 

 

「生産性は幸福を渇望するが、幸福は生産性を必要としない」

 

 

 大人になってしまうと、自分がかつては子どもだったことを忘れてしまい、日々、束になってかかってくる社会に抗い、自分を守るのに精一杯で、つい、「ああ、子どもの頃は、気楽でよかったなぁ~」、などと思ってしまったりします。

 

 けれども、本当にそうだったのでしょうか。

 

 人間は、どうしても、世界、つまり他者との関わりをもたずに生きていくことはできないため、子どもは、むりやりに産み落とされたこの世界と“うまくやっていく術”を身につけていかなければなりません。

 

 まだ未熟な術しか身につけていない子どもは、とにかく、日々襲ってくる日常の課題を、ハードルのように、いくつかは後ずさりし、いくつかは倒し、いくつかは何とか飛んで、一日を終えます。(大人だって、そうですが)。

 

 保育所なり、幼稚園なり、あるいは、公園に遊びに行ったって、どこにでも、他者の集団はいて、そこをうまく切り抜けなくてはならないのに、それ以外にも、やらなければならないことは、山ほどあります。

 

 

 たとえば、こんなふうに……

 

 朝、定時に起きて、洋服を着替え、食欲がなくても朝食をとり、歯を磨き、顔を洗い、定時に家を出て、スクールバスに乗って、幼稚園に行って、お遊戯、運動、お絵かきをこなし、やっと一日終わるかとほっとして、「お友だち」とおしゃべりしたら、そのつもりはないのに、怒らせてしまって、どんより落ち込んで、ああ、何だか、胸が痛いなあ、もう、幼稚園なんて、行きたくないなあ……。

 

 

 私は、いつも、幼稚園に迎えに来ている母と一緒に、祖母の家へ寄り、そこでお昼を食べて、少し休んでから、帰宅していました。

 

 祖母の家では、(母いわく、「自立に失敗した」)叔父が、居間に面した部屋の、いつも敷きっぱなしの布団の上で、寝たり起きたりしていました。

 

 それを見ると、私は、何だか、わけもなくほっとしたのです。

 幼稚園で、しくじりながらも何とか日課を終えて、くたくたに疲れていた私には、まるで天国でした。

 それで、叔父がいやがろうがおかまいなしに、自分もその布団の上に走っていって、ごろごろしていました。

 

 いいなあ、おじさん、ほんとに、いいなあ……。

 

 そう感じていました。

 

 

 今思うと、私にとっては、おじさんこそが、“静かに座っている象”、だったのかもしれません。(こんなふうに言われて、おじさんがどう思うかは別として)。

 

 

 外側の世界のルールや、時間に従い、慌ただしく、とにかく「~しなさい」だらけで、人と生まれたからには、そのままでいてはいけない、とにかく動かなければならない、何かしなければならない、それだけでなく、他人の役に立つようなことをして、他人から求められ、認められるような存在にならなければならない、という圧迫が、子どもなりに、苦しかったのかもしれません。

 

 

 

 

「せめて、私らしく」

 

 

 人は、何かの、ちょっとした加減で、あちらへ転がり、こちらへ転がり、自ら望んだわけでもない場所へと追い込まれ、しかも、その行く末は決して、安心や安楽を約束しません。

 

 なのに、人は皆、一人ひとり、自分の為したことや、その結果について責任をもたせられ、場合によっては、自己責任論によって強く責め苛まれたあげく、社会からのけものにされます。

 

 何もしない、人の役に立とうとしない、(特に、「お金」という数字、目に見える結果や成果をあげようとしないこと)、つまり、「非生産的であること」は、容赦のない、いわれのない差別や偏見にさらされます。

 

 

 

 映画『象は静かに座っている』の中の、何もせず、ただ座ったままの象とは、“非生産性”の象徴ではないのだろうかと、私は思うのです。

 

 自尊心を、最後のかけらまですべて破壊されたら、その先には、絶望と死しか待っていないのではないでしょうか。

 

 だからこそ、ブー、リン、ジンは、誰も顧みてくれない自らの自尊心に、少しでも、安らぎを与えようと、一縷の望みを求めて、満州里の動物園へ向かったのではないでしょうか。

 

 

 映画のラスト、彼らは、満州里へ直接向かう列車が運休になったため乗れず、それでもその日のうちに、少しでもその場所へ近づこうと、途中の町まで行くバスに乗ります。

 

 彼らが、無事、満州里の動物園についたとして、ただ座ったままの象を見たとして、そのあと、彼らが、どうなるのか、どうするのかなど、わかりもしません。

 

 

 この世に、むりやり産み落とされた以上、何とかして生きなければ、そしてもし、生きる力が不足しているのなら、残りの力をふりしぼって、自らに、呼吸させようとする、それが、いのちというものなのかもしれません。

 

 

 映画のラストシーン、すっかり日が落ちて、バスから降りた3人の背景に、象の鳴き声が響き渡ります。

 

 かなしいような、怒りに満ちているような、いずれにしても、私にはその声が、生きる「痛み」のように感じられたのです。

 

 

 

 

                                《終わり》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タブラ・ラサ

 

 

        生まれたとき 手紙を 持ってたはず なんだ

 

        そう ぼくが

 

        なぜ こんなに 苦しいのか

        なぜ こんなに かなしいのか

        なのに なぜ 生まれたのか

 

        けれども その手紙は

        日々 手あかにまみれ

        踏みにじられ 破れて

        いまは もう

        何が書いて あったのか

        読めも しない

 

        だから

 

        ぼくは ときどき

        むやみやたらと

        あやまりたくなる

 

        ごめん

        ごめんね 

        ほんとうに ごめんなさい と

 

        そして

 

        ぼくは 

        むやみやたらと

        何もかもを

        きずつけたくなる

 

        ぼくに さわろうとするもの すべてを

 

 

        何も 知らない

        何も わからない

        もう

        どこにも 書いて いない から

 

        生きる こと

        信じる こと

        愛する こと

        死ぬ こと

 

        ひと

        いのち

        世界

 

        すべては

        あの 

        失われた 手紙のなかに

  

 

 

        まばゆい 光を放ち

        おそろしく 速い

        あの 列車が いつ ぼくを 轢いていくのか

        わかりもしない 線路の上を

 

        いったい どこまで

        歩いて いくの だろうか

 

        ぼろぼろになった

        紙きれ ひとつ

        捨てることも できないままで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『象は静かに座っている』(5)

 

 

 どこかの森で、一本の木が切られると、遠く離れた、どこかの森で、もう一本、まったく別の木が、同時に倒れる―。

 

 こんな現象を、「シンクロニシティ」、というらしいですね。

 

 (「粒子Aの性質を変化させると、物理的なつながりがない、遠く離れた粒子Bの性質も変化する」、という量子力学のジョン・ベルの理論を、アインシュタインはひどく不気味がった、とか………)

 

 

 かなしいことに、理数系がまったくダメな私には、いったい何がどうなっているのか、まったく歯が立ちませんが、興味だけは、ものすごくあるのです。

 

 

 この話を読んで、私は、『百匹目の猿現象』を思い出しました。

 

 ある島で、一匹の猿が、泥の付いた芋を川の水で洗って食べたのを他の猿が真似しはじめ、やがて、百匹目の猿が、その方法で芋を食べることを学んだようになった途端、遠く離れた、真似のしようもない他の地に住む猿たちが突然、次々に、同じ方法で芋を食べるようになった、というものです。

 

 

 この不気味さは、なんなのでしょう?

 

 

 木だって、猿だって、ヒトだって、それぞれに、まったく別個で、つながりがないはずの個体として存在しているはずが、しかも、すぐそばにいて、震動とか、模倣とか、そうした影響を受けようもないはずのものが、突然、連動して動くなんて………。

 

 

 そんなの、オカルトでしょう?と、一笑に付すのは簡単ですが、それがどうやらそうでもないらしい、ということが明らかになる一方のようです。

 (うまく説明できる自信がないので、省略しますが)。

 

 

 だいたい、いまでこそ、「科学」と呼ばれるものや現象は、もとはといえば、「そんなの、オカルトでしょう?」と笑われ、相手にもされなかったものです。

 

 電話。電気。ファクス。テレビ。パソコン。コピー機………。

 あげたら、きりがありません。

 

 「そんなの、オカルトでしょう?」と言われていたものが、科学的立証によって、根拠が明らかになれば、「科学」となって、「現実」の仲間入りをして、そうなれば、もう、誰も疑いを抱かなくなるのです。

 

 

 たとえば、ビリヤードをしていて、キューで球をついたとき、どこか、遠く離れた別の場所で、何らかの形で「シンクロニシティ」現象が起き、その結果、何かとんでもないできごとが起こっているかもしれない………。

 

 こわくないですか?

 

 私は、ひどい臆病者なので、とてもこわいです。

 

 

 

 『象は静かに座っている』で、高校生の少年ブーは、その日の朝、大けがをしているために仕事ができない父親に八つ当たりされ、「出て行け」、と言われます。

 

 そして、ブーは、学校で親友をかばったことで、たまたま、チェンの弟シュアイの死にかかわりをもってしまいます。

 

 家に居場所がないブーは、唯一の自分の理解者の祖母をたずねると、彼女は孤独死していました。

 

 シュアイの兄、チェンとその仲間に狙われたこと、あるいはそれだけでなく、間接的に他人の死に関与してしまったことで、“人殺し”にされてしまったブーは、追われるようにして、町を出ていかなければならなくなったのです。

 

 また、ブーの同級生の少女リンは、家のトイレが壊れて水浸しになっても、それを修理する時間的精神的余裕のない母親との生活に嫌気がさし、学校の副主任と親しい関係になりますが、SNSによって、その事実が学校中に知れ渡り、母親にも知られ、あげく、副主任とその妻が家にまで押しかけてきて、彼女は、彼らを野球のバッドで殴り、逃げだします。

 

 家にも、学校にも、副主任の家にも、居場所をなくしたリンもまた、町を出て行かなければならない状況に追い込まれたのです。

 

 

 また、シュアイの兄で、その町の不良たちを束ねるチェンは、その朝、親友の妻と不実を知られ、そのせいで自殺してしまった親友の死に対する、強い罪悪感に耐えかねて、自分を拒んだ恋人を責めてみたり、あるいは、自分の罪悪感をかき消すように、ブーを逃がしてやったり、(それまではおそらく親しくしていた)親友の母親に、“自分のせいだ”と罪を告白したりします。

 

 最後には、一度はブーを見捨てたブーの親友に銃で撃たれ、大けがを負い、そのあとどうなるかについては描かれていませんが、彼の行く末も、少なくとも、明るいものではなさそうです。

 

 

 

 人は日頃、何でも自分でコントロールできたり、自分で考えて判断したり決めたりしているように思っているのではないでしょうか。

 

 だからこそ、自己選択だの自己決定だの、あげく、自己責任だのという言葉がまかり通っているわけです。

 

 でも、本当にそうでしょうか?

 

 私たちは、社会正義に反した行いをみるや、嫌悪感をあらわにし、これ幸いとばかりに、批判したり、批難したり、場合によっては、いわれのない誹謗中傷の嵐に発展することもあります。

 

 けれども、自分はそこにまったく関与していないといえるのでしょうか?

 

 何気なく、自分がキューを動かして球を突いたことが、めぐりめぐって、何かの空気や雰囲気が、ある方向へ大きく動くきっかけを与えてしまうことも、ないとはいえないのではないでしょうか。

 

 

 人間は、正当化の達人だと思います。

 

 「自分で決めたことだから」「これは正しい、良いことに違いない」、と思わなければ動けないほど、ヒトというものは、もともと、自信をもつことが難しい生きものなのかもしれません。

 

 自分の、ちょっとしたふるまいや不注意が、どこかで何か、とんでもなく悪い結末を引き起こすかも……?などと考えはじめたら、もう一歩も動けなくなってしまうことでしょう。

 

 深刻で、おそろしいできごとの、その一端を自分が担っている可能性があるだとか、自分のやってきたことは間違いかもしれない、などと思いはじめたら、そこに待っているのは、どうにも背負いきれない、押しつぶされそうな罪の意識に責め苛まれる、生き地獄しかないわけですから………

 

 

 

 

 

                             《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あしたの 太陽

  

 

       眠れぬ夜の

       朝は しらじらと 明けて

       太陽は

       低く 重い なまり色の雲を 押しのけて

       むっくりと 顔を 出す

 

       世界は わがもの と

       自信たっぷりの その顔に

       吐き気をもよおす ものが いるなど

       思いも せずに

 

 

       ひとりきりで あした から

       おいていかれる 自分を

 

       あした を 約束しない 

       今日の 太陽を

 

       どれほど 呪わしく 思ったことだろう

 

 

       太陽を 焼き尽くして あまりある

       闇の 炎を

       知りもしない 太陽を

  

       底なしの 憎しみに 背を向け 抗する

       光の あがきを

 

       いったい 誰が 愛せる というのだろうか

       いったい 誰が 許せる というのだろうか