他人の星

déraciné

映画『メランコリア』(1)

 

 

      “私の生まれた日は滅び失せよ。”                                                 

                    —『ヨブ記

 

 

「新しい朝が来た、希望の朝だ」……

 

 目覚めた瞬間から、さあ、大変。

 はるか彼方まで、ずらりと並んだ、数えきれないほどたくさんのハードル。

 今夜の眠りにたどりつくまで、いくつ、ちゃんと飛べるかな?

 

 まずは、布団から、身を引きはがすようにして、起床。

 それから、服を着て(えーっと、今日は何を着よう?)、顔を洗い、トイレに行って、食事の支度をしたら、ご飯を食べて、歯を磨いて。

 

 今日は、何曜日?あぁ、家庭ゴミの日だ!ゴミ出さなくちゃ。

 

 大変、もうこんな時間!

 「行ってきます」。

 

 バスが来た、さあ、乗って。

 どこで降りなくちゃならないか、わかるね? 

 居眠りなんかして、寝過ごしちゃだめだよ! 

 

 さあ、着いた。しなくちゃならないこと、山のごとし。

 勉強。仕事。雑用。

 必要なことも、そうでないことも。

 コミュニケーションも、とらなくちゃ。

 

 ようやく、ランチの時間。

 お腹がいっぱいになれば、目の皮がたるむ、とはよく言ったもの。

 眠いのをがまんして、午後もがんばらなくちゃ……。

 

 

 戦い終わって、日が暮れて。

 さあ、帰ろう。

 帰るのだって、ひと苦労。

 もう少し、もう少しだからね……。

 

 「ただいまー」。

 ああ、疲れた………

 顔でも洗って、食事の支度して、ご飯を食べて。

 今日は、テレビ、何か、おもしろいのやってるかな。

  

 それから、お風呂に入って、歯を磨いて、お布団敷いて、寝~ま~しょ。

  

 

 お・め・で・と・う!

 “ぱーん”と、クラッカー鳴らして、お祝いしても、いいくらいですよ。

 えらい、あんたはエライ!

 今日を生ききったじゃないか、えらい!

 さすがだねぇ!天才だねぇ!

 よくやった!よくがんばった!

 

 

 ……ところが、この世界では、そんなことで、誰もほめてくれません。

 あたりまえだろ、そんなの。

 誰も気にも留めないし、本人も、そんなことはよくわかっています。

 

 

 けれども、これがかなりすごいことなんだということは、病気になってはじめて、身にしみてわかるのかもしれません。

 

 身体の病はもちろんですが、心の病にかかっても。

 

 そして、『メランコリア』の主人公の一人、“ジャスティン”のもつ、ある心の病もまた……。

 

 

 

“地獄へ ようこそ”

 

 「メランコリア」、というのは、言わずもがなうつ病のことで、「ギリシア語のメライナmelainaまたはメランmelan(黒い)とコレchole(胆汁)の合成からなることでもわかるように、体液のなかで黒胆汁が過剰になる」病のことです。

 

 古代ギリシャ・ローマでは、ヒポクラテスやガレノスが、人間の体液を、粘液、血液、黒胆汁、胆汁(黄胆汁)の4種類に分け、それらが調和と均衡を保てれば健康、いずれかが過剰になると病気になり、メランコリアは、黒胆汁の過剰による病であり、憂鬱質、心配性、生真面目、内気で寡黙、消極的で不安が強いなどの傾向を引き起こす、と考えられていたのです。(参考『コトバンク』)

 

 

 さて、映画は、姉のクレアと妹のジャスティン、それぞれの立場から描かれています。

 

 最初は、妹のジャスティン。

 

 映画のタイトルどおり、彼女は、うつ病を患っています。

 けれども、今日は、職場の同僚マイケルとの結婚披露宴。

 しかも、お金持ちの学者と結婚した姉クレアの、ゴルフ場付き豪邸が会場です。

 

 ジャスティンは、純白のウェディングドレスに身を包み、夫マイケルとともに、豪華なリムジンに乗って、会場へと急ぎますが、田舎の細い道に、小回りのきかないリムジンでは、どんな名ドライバーでも、カーブをうまく曲がれません。

 

 それでもジャスティンは、幸せそうな笑みを浮かべ、時折、マイケルとキスを交わし、しまいには自分がリムジンを運転しますが、うまくいかず、途中で降りて、徒歩で会場へ。

 

 予定より、2時間も遅れての到着に、式を取り仕切るクレアの機嫌は悪く、はじめから、雲行きは怪しいのです。

 

 招待客は、それでも祝福ムードを盛り上げますが、その空気を壊し、花嫁の表情を暗く曇らせたのが、誰あろう、ジャスティンとクレアの、(離婚した)母親と父親なのです。

 

 父親は、どこか頼りなさげで、自分の両隣に座った若い女性で同名の、二人の“ベティ”に気に入られようと、テーブルのスプーンをくすねてみせたりして、おどけています。

 

 そしていざ、娘への、お祝いの言葉を求められると、「私の大切な娘よ」と、父親らしいことを言いつつも、自らの、悲惨だった結婚生活と、「威圧的な女だった」と、元妻への不満をもらしてしまいます。

 

 言われた元妻も、黙ってはいません。

 

 「いまのうち、せいぜいはしゃいでおくがいい(結婚なんて、地獄にすぎないのだから)」と、娘に向けて、言うのです。

 

 

 ほかでもない、自分たちの「大切な」娘の、人生最高の幸せの日に、この元夫婦は、これ以上はないというほどの、“呪いの言葉”を吐きかけ合ったのです。

 

 けれども、ジャスティンは、それでも笑みを浮かべ、この牛頭馬頭の責め苦に、何とか耐えます。

 

 

 ………ですが、傷つきやすく、繊細で、(おそらくは、うつ病寛解期にあった)ジャスティンの心が壊れるまでのカウントダウンは、誰も知らないうちに、だいぶ前からはじまっていたのです。

 

 

 

 

                                《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真夏の 葬列

 

 

       真夏の 日盛りに 葬列を 見た

 

       標本のように 完璧な セミの幼虫が 地を這っている

       と 思ったら

       それは 黒々とした 小さい蟻が 無数にたかって

       少しずつ 少しずつ すすんでいく そのさまであって

       きみの いのちは もう ないのだった

 

       大事な 大事な 食糧を

       蟻たちは

       そろり そろり

       ゆっくり ゆっくりと はこんでいく

 

       「食べること」は 「愛すること」だから

 

       すべて 残さず 丸ごと 食べて

       自分の ものに すること だから

 

 

       ねぇ ところで きみ

       世の中から 門前払いされた きみは

       何も 思いは しないのかい

 

       羽化への道は 厳しくて

       成功率も 低いそうじゃないか 

 

       落下して 力尽きて死んだ きみの すぐ上の木々

       みんな 騒々しく 鳴いているよ

  

       ああ 恋しい 恋しい

       愛しい 愛しい きみよ 

       ぼくを 愛してくれ 愛してくれ と

 

       一声も 鳴けなかった きみの 亡きがらの上で

       不謹慎にも くるおしく

       めくるめく 恋の快楽を 謳歌しているよ

 

 

       ねぇ きみ

       うらめしくは ないのかい

       にくくは ないのかい

       かなしくは ないのかい

 

 

       もし ぼくならば ぼくならば

       うらんで にくんで かなしんで

       この世なんて 滅んでしまえと

       願うかもしれない っていうのにさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『シン・ウルトラマン』(4)

 

“裁定者 ゾーフィ”

 

 さて、『シン・ウルトラマン』では、物語を結末へ導く存在として、テレビ版でのウルトラ兄弟の長兄“ゾフィー”が、“ゾーフィ”、として登場します。

 

 “ゾーフィ”は、狡猾なメフィラス星人でさえ、「ヤバいやつが来た」と、ウルトラマンとの戦闘を途中で放棄して逃げ出すほど、ちょっとまがまがしい存在として現れます。

 

 ゾーフィは、人間と融合したウルトラマンの存在や、メフィラス星人の策謀によって、全宇宙に、人類が生物兵器になり得ることが知られてしまった以上、地球と人類を、「天体制圧用最終兵器」ゼットンによって消滅させざるを得ない、というおそろしい最後通告をするのです。

 

 地球人の味方をしてくれる、まるで神か仏のように慈愛に満ちたウルトラ兄弟、というイメージが、ひっくり返る瞬間、かもしれません。

 

 ですが………。

 

 そんな神か仏のような宇宙人が、どうしてこんな、宇宙の辺境にある、青い小さい星に住む人類なんかを、わざわざ守ってくれるんだろう?

 

 もともと、ウルトラマンは、宇宙人の立場からすると、裏切り者です。

 

 いわば、決して珍しくもない、雑魚のごとく、他にいくらでもいるような劣等生のなかの、たった一人の肩をもつ、学校でも憧れのまとの優等生、みたいな位置づけでしょうか。

 

 そして、地球人ときたら、ウルトラマンが味方についているのをいいことに、人類ほど間違ってもいないし、大して悪くもない怪獣や宇宙人を、片っ端から、ウルトラマンに処分させるのです。

 

 実際、第35話『怪獣墓場』で、ハヤタ隊員は、今まで倒した怪獣たちに、「許してくれ」、と謝っています。

 

 また何より、第23話『故郷は地球』では、地球人が宇宙開発のために送り出し、生死不明のまま救おうともしなかった宇宙飛行士ジャミラが、自分を見捨てた地球人への復讐のために、怪獣となって地球へやってきたところを、地球の平和を守るためとはいえ、葬り去らなければならなかったウルトラマンの心は、いったいどんなだったことでしょう。

 

 

 人類の味方=正義の味方となったことによる深い苦悩は、次作『ウルトラセブン』に引き継がれ、より丁寧に、物語全体を貫く底流となっています。

 

 たとえば、第14,15話『ウルトラ警備隊西へ 前後編』では、ワシントン基地から打ち上げられた観測用ロケットがペダン星に打ちこまれ、それを侵略行為だとして、地球へ復讐を仕掛けてきたペダン星人。(「先に手ェ出したの、そっちだかんね!」)

 

 第26話『超兵器R1号』では、地球が開発した惑星攻撃用ミサイルを、生物がいないものとして、ギエロン星に実験発射したところが、その放射能によって怪獣となってしまったギエロン星獣

 セブンと闘うギエロン星獣の、舞い散る羽根が、かなしみをあらわしているかのようでした。

 

 第42話『ノンマルトの使者』では、人類よりも先に地球で生きていた地球原人ノンマルトが、過去、人類によって海底に追われ、その海底までも、ノンマルトを滅ぼして手に入れ、ウルトラ警備隊隊長キリヤマは言い放ちます。

  「海底も我々のものた!」

 

 

 いったいどこまで人類びいきなのか、と、全宇宙人に批難されてもしかたがないくらい、ウルトラマンウルトラセブンも、人類の罪を、かわりにかぶってくれたのです。

 

 まるで、神の子イエス・キリストが、人類の罪を背負って、十字架にはりつけにされたように………

 

 

 

『神(シン)・ウルトラマン』?

 

 ところで、『風の谷のナウシカ』漫画版では、物語も終わりに近づく頃、“火の七日間”で世界を滅ぼした、巨神兵の最後の生き残りが、ナウシカを“ママ”と呼んで、慕います。

 そんな彼に、ナウシカは、“オーマ”(無垢という意味)という名を与えます。

 名前を与えられた途端、それまで赤子のようだった巨神兵“オーマ”は、急激に知性が発達し、こう言います。

 

  「ぼくは オーマ 調停者にして戦士……… そして 裁定者………」

 

 この巨神兵は、火の七日間で、ことごとく世界を焼き尽くし、人類を滅亡に追いやった化けもの、とされていますが、原作でも、はっきりとその正体は描かれていません。

 

 ナウシカは、こんなふうに、考えをめぐらせます。

 

 「わたし達は オーマの一族について 何も知らないんだわ 

  火の七日間で世界を亡ぼしたっていう伝説を きいてるだけ

  ただの兵器なら 知能は却って邪魔のはずだわ 

  この子には 人格さえ生まれはじめている

  大昔の人は 死神としてオーマ達をつくったんじゃないらしい……

  神さまとして…… まさか」

                      

 

 『シン・ウルトラマン』でのゾーフィの立ち位置というのは、オーマのような「裁定者」、裁きを行う者の役割を負っており、いわば神に近い存在、ということになるのでしょうか。

 

 神、というものが、いついかなる場合にも、全体と絶対の価値に照らしてものごとを判断し、誰も特別扱いせず、ときには冷淡冷酷な判断をくだすものであるとするならば、そうなのかもしれません。

 

 

 けれども、私は、遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。

 

 「沈黙」、というのは、カクレキリシタンに対するあまりにも厳しく残酷な処刑や迫害がなされるのに、なぜ神は黙ってみておられるだけなのか、という意味でのタイトルなのだろうと思います。

 

 もしも、「神」、という存在がいるのなら、信者たちがこれほど苦しめられているのに黙って見過ごすはずがない、迫害をする側に対して、何らかの罰が、神のみわざとして下されるはずだ、ということなのでしょうか?

 

 

 私は、幼稚園から高校まで、ずっとミッションスクールでしたが、神の存在を信じることはできませんでした。

 

 

 たとえば神という存在がいるとして、もし、全宇宙とか、全体の利益にてらして、地球でも、その他の星でも、消滅をはかるとするのなら。

 それはあきらかに、作為の神でしょう。

 

 ……けれども、また。 

 

 どんなにおそろしいことが起きても、どんな悲劇が起きても、神はただ、黙って見守っているだけ。

 

 悪人を裁いたり、善人を救ったりすることもありません。

 (おや?きみは善人のつもりかい?)

 

 この世の悲しみも、苦しみも、あるがまま、あるがままと、もし微笑をうかべて見ている神がいるとしたら、正直、私には、解せませんし、憤りも感じます。

 

 ですが、浅はかな、ヒトの論理や道理ではかることのできない、それこそ人智を越えた存在があるとしても、文字どおり、人智を越えているのですから、理解できる日などきっと来ないのでしょう。

 

 

 

 『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンのコンセプトを活かしつつ、守りつつ、さらに新しいニュアンスの切り口を加えた、とても面白い作品でした。

 

 だからこそ、唯一絶対にして不滅、無敵の力をもつ神が、自分の味方であってくれたなら、(いや、そうであるべきはずだ)、という人間の欲望の、救いようのないほどの深さを思ったのです。

 

 こればかりは、いくら考えても、考えても、何といっても、人智を越えているのですから、答は永遠に、空の上なのですが………。

            

 

 

                                 《おわり》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信号機と ヒグラシと 同調圧力

 

 

 

       絶対 必要ない ところに ついてる

       信号機って あれ

       どういうわけなんだろうって

       そこに 来るたび 

       思い出したように 思う

 

       まるで

       自然に 朽ち果てて 消滅するはずの

       いらない 配線の 一部が残ってる みたいな

       あるいは 廃墟の 一部 みたいな

 

       でもね みんな 赤信号のあいだ

       ついに 一台の車も 通らなくても

       ちゃんと 止まって 待ってるんだ

       

       そして

 

       二人 三人 四人…… と

       止まる人が 増えていくと

       自分ひとりだけ そこを 信号無視して

       歩いていけないんだよね

 

       “こういうのを 同調圧力 といいます”

       って 頭の中で 声がする

 

       “知ってるよ” 

       わたしは 心の中で くちびるを ぶっと 前に突き出す

       “大むかし 群れから離れて たった一人で 行動すると

       すごく 危険だったから その名残り

       だけど いまは 何だか 邪魔っけだね”

 

 

       夏の夕暮れ 帰り道

       かな かなかなかなかな って

       ヒグラシの 合唱が きこえてくる

       おのおの 好き勝手に 鳴いてるはず なのに

       みんな 調子が 合っていて

       リズムも きちっと きれいに

       そろってる 

 

       ずーっと じーっと 聞き入っていると

       耳のなか だけじゃなく

       頭のなか だけじゃなく

       体じゅうが ぜんぶ セミの声の 洪水になる

 

       空は 真っ赤な 雲の群れ

 

       それも じーっと ずーっと 見ていると

       目のなか だけじゃなく

       頭のなか だけじゃなく

       体じゅうが ぜんぶ 赤の 洪水になる

 

       

       そのとき

       まわりの 人たちの 頭が

       泳ぐように 動き出した

 

       歩行者信号 青に なったんだ

 

       じゃ 向こう岸に 渡ろうか

 

       意味の無い 信号を 渡った はずが

       気づいたら 

       ほんとうに ほんとうの “向こう岸”に

       着いてたりしてね

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『シン・ウルトラマン』(3)

 

 「ではなぜ我我は極寒の天にも、まさに溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか?救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう?より大きい快を選んだのである。」

                        芥川龍之介侏儒の言葉

 

 

 

 ウルトラマンが、地球人とコミュニケートする意志をもつに至ったきっかけは、神永新二が、怪獣ネロンガの攻撃によって、命を落としかけた子どもを、「自己犠牲」によって救ったのを見たことでした。

 

 たしかに人間は、ときに、自分の命を捨ててでも、他人を助けようとすることがあります。

 

 こうした援助行動、つまり、「利他的行動」は、人間だけのものではなく、他の動物にも広く認められ、進化の過程で淘汰されずに生き残ってきた行動です。

 

 

 ですが、「生命は自己完結しているもの」、という概念をもつ異星人、ウルトラマンの目には、新二の行動は、不思議、かつ、新鮮に映ったのかもしれません。

 

 あるいは、この宇宙のなかで起こるあらゆる現象の中でも、格別、美しいものを見たような気持ちになったのでしょうか……

 

 

 

「自己犠牲」?

 

 マーク・トウェインは、晩年、老人と青年の対話の形をとった、『人間とは何か』を著していますが、この作品は、彼自身の家族にショックを与えただけでなく、世間一般からも、病的なペシミズムだと叩かれ、公刊されたのは、彼の死後七年も経ってからのことでした。

 

 

 「つまりは、同じ人間が溺れかかってる、しかも、それを見ていて、助けに飛び込まんてのは、とうていたえられなかったってことだろうな。それは彼等にとって苦痛になる。」

                    マーク・トウェイン『人間とは何か』

 

 

 それが人間の良心、道徳心というものでしょう、と、人間の心や感情というものに理想を抱く青年に、老人は、「それはどうかな」、と問い返します。

 

 人間というものは、何より「自己否認」をおそれ、だからこそ、どんな犠牲を払っても「自己是認」が欲しいのであって、それは「自己満足、自己陶酔の現れ」にすぎないのに、ありもしない「『自己犠牲』なんていう、辞書の中にあっちゃならん言葉までが、こっそり辞書の中に入れられちまったってことだよ。」、と言うのです。

 

 つまり人は、「ああ、人間って、なんて素晴らしい生きものだろう!」と、他の人たちから思われ、称賛されるようなこととは何かを、「自己是認」の基準として、幼い頃からすり込まれており、そういう「善いこと」をして、ぜひとも(他の人から見て)自分の価値をあげたいばっかりに、そういう行動を取るよう、動機づけられているのです。

 

 逆にいえば、自分の所蔵集団から「人でなし」と蔑まれ、仲間はずれにされるのが、命を失うことよりもこわくて仕方がないのです。

 

 

 冒頭の『侏儒の言葉』は、1923年から『文藝春秋』に掲載されており、マーク・トウェインの『人間とは何か』が一般公刊されたのは1917年なので、芥川は、もしかしたら、読んでいたかもしれません。

 

 

 

心のままに生きる」生命体と、「心のままに生きられない」生命体の出会い

 

 前回、私たちは、誰しも、他人の世話にならなければ生きていけない存在ではあるけれども、その事実と、「自分がコーヒーを飲むときに、一緒に他人の分も持ってくること」は、どう結びつくのだろうか、と書きました。

 

 新二が、自分の分のコーヒーだけを持ってきたのは、彼の論理では、生命というものは自己完結しているのであって、そうした意思決定や行動に関して、相互干渉の義務はないからです。

 

 ですが、「弱い、群れる生命体」の浅見は、新二が飲むコーヒーも、着ている服も、他人がつくってくれていて、私たちは、他人の世話にならなければ生きていけない存在なのだから、そういう気遣いをしてもバチは当たらないんじゃないの、と言いたかったのでしょう。

 

 自己完結型の生命体であるウルトラマン=神永新二と、相互依存型の生命体である浅見弘子。

 

 この両者の、行動規範は真逆ですが、心の方は、どうなのでしょう?

 

 心は、勝手な生きものであって、たとえばその社会で、「不謹慎」だとか「不道徳」だとか言われるようなもの、あるいは、場合によっては犯罪まがいのものであっても、そんなものはどこ吹く風で、自由で、勝手気ままです。

 

 けれども、人間集団である「社会」は、都合の良い秩序のために、自由な心を、外から縛ります。

 

 「他人の世話にならなければ生きていけないくせに」、の縛りは、人間社会で、しばしばその意味や範囲が拡張され、「だから」、「お前だけが勝手なことをするのは許されない」と、その人の自由な考えや価値観までもが抑圧されることも、決して珍しいことではありません。

 

 もし、「他人の世話になって、助け合って、生きていかなければならない存在なのだから」、ときには、命を投げ出してでも、他人を救う、それが「人間の素晴らしさ」だと、すべてが美談で片づけられてしまったとしたら?

 

 人生という理不尽な戦場で、(それはしばしば、実際の戦場よりもずっと残酷だったりします)、「世話になっている」「他人のために」「自分を殺せ」、という“自己犠牲”が推奨されるとしたら?

 

 相互依存によって成り立つ生命体であり、社会である、ということと、個々の意思決定への干渉が、もし、安易につながり合ってしまったとしたら?

 

 

 


 きっと、ウルトラマンが住む世界では、それぞれが、心のままに単独行動をとったとしても、誰もそれを責めたり批難したりすることなく、それでいて、本当の意味で、互いに助け合って生きているのだろうな、と思います。

 

 そんな自分たちと違って、人類は、弱さゆえに群れて、その群れの中で、自分の居場所をなくさないために、しばしば「自由な心」を押し殺す生きものだからこそ、ウルトラマンは興味をもち、守ってやらなければ、という気持ちになったのかもしれません。

 

 


 

 

                                  《つづく》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは」と「さようなら」のあいだ

 

 

       もし

       「こんにちは」 と 「さようなら」の間が

       もっと 短かったなら

       もっと 短くて はかないものだと 

       ちゃんと わかって いたなら

 

       きみに もっと やさしく できたの かな

 

       ぼくが しているのは

       寿命 とか 余命 とかの 話じゃなくて

 

       「きょう」 がある ってことは 「あした」 があって

       ずーっと ずーっと 合わせ鏡みたいに

       「あした」が 永遠に続くっていう

       勝手な 錯覚や 妄想を

       どうしても どうしても

       止められそうに ないんだよ

 

       だから やっかいだな とか

       うんざりだな とか 思っちゃって

       自分 だの 他人 だの 生活 だの

       めんどくさいもん

       みんな まとめて 根こそぎ 引っこ抜いて

       ぶん投げて しまいたく なるのだって

       こんどが はじめてな わけじゃ ない

 

 

       もし

       「こんにちは」 と 「さようなら」の間が

       もっと 短かったなら

       もっと 短くて はかないものだと

       ちゃんと わかって いたなら

 

       もっと 「けんきょ」に なれたの かな

 

       「きょう」 がある ってことは 「きのう」 があって

       ずーっと ずーっと 合わせ鏡 みたいに 

       うしろに 「きのう」を たくさん 背負ってて

       その荷の 重さに

       うまく 歩けなかったり 転んでしまったりするのは

       ぼく だけじゃないんだって

 

       どうして どうして

       いつまで たっても

       わからないんだろう

 

       ほんとは なんにも もってないくせに

       役にも立たない 玩具の 刀

       ふりかざして いまにも 斬りかかろうと

       かっこ つけたり しちゃうん だろう

       いつまでも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

『シン・ウルトラマン』(2)

 

 

 「このお話は遠い遠い未来の物語なのです。え?何故ですって?我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから」

 

                    『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」

 

 

 

 “見返りウルトラマン”は、なぜ、「地球人とコミュニケートする意志」をもつに至ったのでしょうか?

 

 それは、主人公神永新二が、怪獣ネロンガの攻撃によって、今しも命を落としかけていた子どもを、「自己犠牲」によって救ったのを見たからなのでしょう。

 

 子どもの代わりに命を失った新二は、ウルトラマンの命を与えられ、よみがえりますが、人間・神永新二と、異星人ミックスの神永新二では、明らかに、表情や態度に違いが出てきてしまいます。

 

 

 印象的だったのが、新二が自分の分のコーヒーだけを持って席に着く場面でした。

 

 向かいの席にいた新二のバディ、浅見弘子は、新二の行動に、不満をぶつけます。

 

 そういうときは、バディの分も一緒に持ってくるか、あるいはせめて、「コーヒー飲むか?」ぐらい、声をかけるものだろう、と。

 

 

 これに対して、新二は、生命というものは自己完結しているのであって、そうした意思決定や行動に関して、相互干渉の義務はない、というような意味合いの言葉を返します。

 

 つまり、他人がコーヒーを持ってきて飲もうとするのを見て、自分も飲みたいと思ったのなら、勝手に持ってきて飲めばよい、ということなのでしょう。

 

 そんな新二に、浅見は言い返します。

 

 たとえば新二がいま飲んでいるコーヒーも、着ている服も、他人がつくってくれているものであって、私たちは、他人の世話にならなければ生きていけない存在なのよ、と。

 

 のちに、新二は、バディや仲間の何たるかを理解し、人間を、“弱くて、群れる生きもの”として、愛おしく感じ、異星人の攻撃や戦略的利用から守ろうと思うようになるのです。

 

 

 たしかに、浅見弘子の言っていることは、正論だと思います。

 

 私たちの社会は、もはや、狩猟や農耕を中心とする自給自足の社会ではなく、相互依存社会であり、衣服一つとっても、布地を作る人、デザインを考える人、それを縫製する人、それを店まで運ぶ人、最終的に商品として売る人がいてはじめて、私たちは、服を買い、着ることができます。

 

 そうした意味で、私たち地球人は、たしかに、他者の手を借りることなしには生きられない、相互依存的な生命体です。

 

 

 けれども、私は、思ったのです。

 

 そう、私たちは、真実、他人の世話にならなければ生きていけない存在だ。

 けれども、その現実と、「自分がコーヒーを飲むときには、(ついでに)他人の分も一緒に持ってくる」という行動は、どう結びつくのか?と。

 

 

 

“この弱い、群れる生きもの”

 

 

 「自分がコーヒーを飲むとき、その場にいる人の分も一緒に持ってくる」。

 

 こうした行動は、「社会的行動」と呼ばれ、ヒトという生命体に生まれた子どもは、他人とうまくやっていくために必要不可欠な“社会性”の能力として、親やまわりの大人から、必死に教え込まれます。

 

 え?何故ですって?

 

 この地球という星の、ヒトという生命体は、思いやりや利他心にあふれた存在だと、宇宙でも大評判だからです!

 

 ……というのは、冗談として。

 

 

 同種同類が天敵、という、ひどく物騒な人間社会の中で、自らの身を守るためです。

 

 

 ヒトは、どんなときも、コミュニケーションせずにはいられない生きものです。

 何気なくとった行動が、何らかの意味をもつメッセージとして、知らず知らずのうちに発信され、受信される、というプロセスを、私たちは日々、意識的、無意識的に繰り返しています。

 

 

 たとえば、職場でのコーヒー・タイムで、そばにいる人にコーヒーをもっていかなかった場合、相手は、「無視された」、「嫌われている」、あるいは、浅見弘子のように、「礼儀がなっていない」、と思うかもしれません。

 

 あるいは、行為者が、ついうっかり、「自分の分だけコーヒーを持って」きてしまった場合、空気に敏感な人ほど、何だか取り返しがつかないことでもしたような気がして、「どう思われたかな?」と、あとでうじうじ、くよくよ悩むことになるかもしれません。

 

 

 もちろん、本心の愛情や好意、感謝や信頼、尊敬から、相手の飲みものも一緒に持っていくことが、まったくないわけではないでしょう。

 

 けれども、主に職場に代表されるような社会的場面で、こうした“単独行動”をやってしまうと、あとですごく面倒なことになってしまう可能性が高いわけです。

 

 だからこそ、形式的にでも、最初から、他人の分も一緒に持っていった方が、いろいろと、都合がいいのです。

 

 つまり、いつでも本音を明かすわけではない、駆け引き、取り引き、策略、忖度ありまくりの、複雑でめんどくさい人間社会で生きていく上では、必要不可欠な、「自己防衛能力」、といっていいでしょう。

 

 

 私たち人間にとって、思ってもいないことを言ったりやったりするのは、お手のものです。

 

 例えば、「愛想笑い」の能力は、他のどんな動物にも備わっていません。

 

 別におかしくなくても、嬉しくなくても、とりあえず、へらへら笑っていれば、何となくその場がなごみ、面倒な争いごとを回避することだってできるでしょう。

 

 

 つまり、我々人類は、信頼し合っているから、他人の分もコーヒーを持ってくるのではなくて、信頼し合っていないから(それを隠蔽するために)、他人の分も、コーヒーを持ってくるのです。

 

 

 ウルトラマン

 そのへんを、誤解していないといいけれど……… 

 

 

 

                                  《つづく》