「眠りの生物学的な意向は休養であり、心理学的な性格は現実世界への関心の中断であるようにみえます。われわれがいやいやながら生れてきたこの世界に対するわれわれの関係は、中断の時がなくては維持しきれないもののようです」
フロイト著 高橋義孝他訳『精神分析入門(上)』新潮文庫 1977年 p115
ある日、電車に乗ったとき、ふと周囲のようすが目に入って、思いました。
ああ、たまたま電車の同じ車両に乗り合わせて、今ここにいる人たちは、ここにいるけど、実際には、ここにはいないのだな、と。
それはつまり、こんな光景でした。
スマホに見入る人、本を読む人、音楽を聴いている人、居眠りしている人……。
かく言う私の生活もまた、そういうもので満ち満ちています。
たとえば、音楽は大好きで、これまでも今も、時間さえあれば聴いていて、すっかり私と私の日常の一部になっています。
そして、眠ること。
あまりに重く、深刻な問題を抱えているときは、眠りにつくことさえままなりませんが、そうでないときには、できるだけ眠っていたいというなまけものでもあります。
一般に、人は、人生の約1/3の時間を眠って過ごす(たとえば、24歳の人であれば、そのうちの8年間は眠っている、ということになりますね)といわれますが、私の場合、もしかしたら、人生の半分!?にも迫るほど!?、眠っているかもしれません。
そして、本を読むことも、映画を観ることも、それから、好きなお裁縫や、時々写真を撮ることも、あるいは、文章を綴っているときも、厳密に言って、「現実」から逃避しているのかもしれない、と思うのです。
ところで、「現実」、とは、何をさすのでしょうか。
広辞苑を引くと、こうあります。
「現に事実としてあること。また、そのもの、その状態。空想に対する実在。実際。」
私は、哲学の知識を持ち合わせてはいないので、この程度です。
例えば、最初に書いた、電車の中でのことですが、「スマホに見入っている」、「本を読んでいる」、「音楽を聴いている」、「居眠りしている」、と、他の人から見ても明らかな状態が、「現に事実としてあること」になるのでしょうか。
ですが、周囲から見て、本人が実際(主に、内面的、精神的、主観的な意味で)、どういう状態にあるのかを知ることはできません。
すごく楽しい、嬉しい、幾分そうだ、あるいは、すごく悲しい、腹立たしい、あるいは幾分そうだ、など、そのときの気持ちや気分、あるいは、思いや考えがとらわれているもの、はっきりと、または漠然と思い出している過去のできごとなど、その人の行動や状態を見るだけではわからないことがたくさんあります。
はたしてそれらを、「現実」と呼ぶのでしょうか?呼ばないのでしょうか?
ほんの少し聞きかじったことのある心理学の分野では、そのように、外側からは知ることのできない個人の内面を「主観的現実」と呼び、その人を深く理解するのにより重要と考えるそうです。
実際、精神分析の創始者としてよく知られるジクムント・フロイトは、いくつかの単語に対する患者の反応を分析する「自由連想法」や、夢分析によって、患者の内的世界、つまり、主観的現実を探り、理解することによって、治療を行いました。
社会的動物であると同時に、感情の動物である人間は、自分の内的世界から切り離されて生きることはできないでしょう。そうした意味において、実は、自分の内的世界というものは、フロイトが指摘したように、ある場合には、かなりの困難を覚悟して、“危険な外界”から守らなければならない、(客観的な意味に対して)、自分だけの、大切な「現実」だといえるのだと思います。
最初にあげたフロイトの言葉について、再び考えてみると、「現実世界への関心(あるいは関与)の中断」は、たしかに「眠り」という方法が完璧に近いようですが、それだけでなく、たとえばスマホに見入ったり、本を読んだり、音楽を聴いたり、空想や想像にふけったり、あるいは、お酒を飲んだり、おいしいものを食べたりしている間、客観的な意味での現実を連続して離れるのではないにしても(一人一個の身体を保有している以上)、心の方は、たびたび「主観的現実」の方へ引き寄せられているのではないのでしょうか。
はたして、その時間は、その程度は………。
人は、一般に、人生の1/3の時間は眠っているという事実に加えて、こうした“トリップ”を加えると、人が「現実」に属している時間というのは、いったいどれだけになるのでしょうか。
それは、私自身もまた、漠然とイメージしていた質と量よりは、結構、意外と少ないのではないのだろうか……と思うのです。