他人の星

déraciné

恋と、アイデンティティの危機 2

 「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾のWarming-upとでも称すべきか。」

 「『きれいなお月さまだわねぇ。』なんて言って手を握り合い、夜の公園などを散歩している若い男女は、何もあれは『愛し』合っているのではない。胸中にあるのは、ただ『一体になろうとする特殊な性的煩悶』だけである。」

                         太宰治『チャンス』

 「男と女が、コオヒイと称する豆の荷出汁に砂糖をぶち込んだものやら、オレンジなんとかという黄色い水に蜜柑の皮の切端を浮かべた薄汚いものを、やたらにがぶがぶ飲んで、かわり番こに、お小用に立つなんて、そんな恋愛の場面はすべて浅墓というべきです。」

                         同『花吹雪』

 

 ミもフタもないですね。容赦ありません。頭の上から、冷たい水を浴びせられたみたいです。

 けれども私は、太宰のこういうところが好きです。

 さめたまなざしで、よく切れる刃物のように、音も立てずに切りつけるのですが、その同じ刃が、己にも向けられていることを、よく知っている人だったのではないでしょうか。

 太宰のように、“恋愛”のみならず、自分を根本からゆるがすようなできごとに対していつも自分を開いている、などということは、なかなかできることではありません。

 そんなことをしたら、命がいくらあっても足りませんし、実際、太宰は何度も自殺を試み、最後には既遂してしまいましたが、私は、あれが彼の寿命だったのではないか、とさえ思うのです。

 

 そして、夏目漱石もまた、数々の小説の中で、男女の恋愛感情について、生々しく描写しています。

 たとえば、『それから』では、主人公、代助は、過去、友情の証のようにして友人に譲り、いまや人妻となっている三千代を忘れられず、とうとう思いを告げる決心をします。

 ですが、当然、この禁断の恋は許されず、代助は、友人ばかりでなく、今まで「高等遊民」という自由な身分を保障してくれていた親の家からも勘当されます。

 『それから』の最後は、解釈の分かれるところですが、見るものすべてが赤くなり、「くるりくるりと燄の息を吹いて」回り始め、発狂、破滅、様々な暗い未来を暗示して終わります。

 続く『門』は、前期三部作のしめくくりとなりますが、一見しておだやかな宗助と米の夫婦の生活には、恋愛にまつわる罪が暗い影をさしています。

 また、後期三部作の一つ、『心』では、恋愛にまつわる罪について、とりわけはっきりと、わかりやすく提示されています。

 主人公の「私」が偶然出会い、強く心惹かれるようになった「先生」は、過去、自分の恋を成就させるために友人を出し抜いた直後、その友人が自殺を遂げて以来、罪の意識に苦しみ、「私」にすべてを打ち明ける手紙を残して、自ら命を絶ってしまうのです。

 

 つまり、恋が破壊するのは、アイデンティティ(その人がその人であるゆえんや、人間としてのその人のまとまり)ばかりでなく、場合によっては、その人の人生そのものである、といえるのだと思います。

 

 芥川龍之介は、次のように書いています。

 「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。」

                        芥川龍之介侏儒の言葉

 

 「人生」、という言葉を、「恋」におきかえてみてもいいかもしれません。 

 

 いずれにしろ、太宰も、漱石も、芥川も、「特殊なる性的煩悶」だから、「人生を台無しにする」から、「危険」だから悪である、とは決して書いていないのです。

 恋は、性と生(同時に死)と密接に結びついている、とは、よくいわれることですが、そうした非合理的な衝動によって、たとえどんなに愚かにみえても、時には自らすすんで、思いがけない方向へ向かって、人生の舵を切ってしまうことがあるのが生の人間の姿だと言ってくれているのかもしれません。

 そこには、あらゆる価値判断をよせつけない人間の本質への、とても自由で、血の通ったまなざしがあり、苦悩や不安に寄り添ってくれるあたたかさがあるのではないでしょうか。