他人の星

déraciné

相対性

 エッシャーの、「相対性」という絵が好きです。

 

 私は、美術の知識をほとんど持ち合わせておらず、パートナーと美術館に出かけても、いつも私の方が先に見終わってしまいます。

 すぐに飽きて、退屈してしまうのです。

 子どもみたいだと言われました。自分でも、そう思います。

 

 東京などの大都会とは違って、いろいろな美術展が頻繁に開かれるわけでもなく、結果、自分の気に入る絵と出会うのは、大抵、書籍の中です。

 

 エッシャーについては、他の絵は知っていたのですが、「相対性」は、中野京子氏の『怖い絵』(角川文庫 2008年)で初めて見て、興味を引かれ、アートポスターまで購入しました。

 

 そうして、時々、ぼんやりと、眺めています。

 

 中野氏が解説しているように、この絵の中には、三つの異なる世界が存在しています。氏は、これを、「ブルー」、「グリーン」、「レッド」に色分けしています。

 「ブルー」の人々は、絵の左上、外を連れ立って歩いている二人と、階段の方を何気なく見ている人、普通に階段を降りている人、絵の中央で、何か重そうな荷物を背負って階段を上る人と、左下、かごを持って今しも階段を降りきろうとしている人の6人です。

 「グリーン」の人々は、絵の上部真ん中、ちょうど「ブルー」の人とすれ違うようにして(引力の方向として不可能な位置から)階段を上る人、絵の中央左、椅子に座って本らしきものを広げている人、絵の右下、何かの瓶とコップをのせたトレーを持って、階段を下る人、それに、外で食事を取る二人組の5人です。

 「レッド」の人々は、絵の下中央、こちらに背を向けて階段を上る人、右上で、階段のある空間を見ている人、そこから階段を途中まで降りている人、絵の左、踊り場から階段を降りる人、そのすぐそばで、踊り場へ向かって階段を上る人の5人です。

 

 中野氏によれば、「エッシャー本人は、自分の作品から何らかの寓意を導き出されるのを嫌ったらしい」(p50)のですが、たとえ意味がないものであっても、そこに何かしら意味を見出したがるのが人間の性であるらしく(空の雲が動物に見えたり、星々を結びつけて星座にしたり、壁や天井のシミが顔に見えたり)、私の頭の中で、勝手に、いろいろな解釈や想像が浮かんできてしまいます。 

 

 この絵を見て思ったのは、人それぞれが歩き、過ごし、暮らし、感じ、考え、生きている世界は、ずいぶんと、かなり異なっているのではないのだろうか、ということです。

 ある人の価値観では「天」だと信じ込んでいるものが、またある人の価値観では「地」だったり、ある人にとっては、予期しうるちゃんとした“扉”(一区切りをつけて、次の段階へとすすむ過程)であるものが、別の誰かによっては、予想だにしない、ふいにぽかっと開いた、どこまで落ちるかわからない落とし穴なのかもしれません。

 

 また、この絵の中の三つの世界には、どれも明るい日射しがあるようですが、自分の感情の状態や、心身のコンディション、あるいは、身近で起きたできごとによっては、たとえ天気は良くても、光や風のあたたかさを、まったく感じられないこともあるのではないでしょうか。

 

 時々、こんなふうに思います。

 朝起きてから、夜の眠るまで、その間に達成し、飛び越えなくてはならないハードルは、いったいいくつ、あるのだろう?

 目の前にある、この、水がなみなみとはられたプールを、はたして、溺れずに、泳ぎ切ることができるだろうか?

 

 この絵に見られる「相対性」に、私は、人それぞれ、目に見えない、互いに想像の範囲を超えた世界で生きているのに、そういうことにまったく気づかず、知ることもできないおそろしさと、奇妙な興味深さを感じたのです。