他人の星

déraciné

接吻

 クリムトの、『接吻』、という絵も好きです。

 

 きれいな絵だと思っていて、パズルになっているのを見かけたので、購入しました。(アウトレット価格でした)。

 2000ピース以上ありましたが、パズル好きだし、何とかなるだろう、と軽い気持ちだったのですが、とんでもありませんでした!

 1000ピースよりもピースのサイズが小さく、倍どころではない難易度に、これはだめだ、とさじを投げかかって、ほったらかしにしていた時期もありました。半年ほどかかって、ようやく完成しました。

 

 ながめていると、男性に抱え込まれている女性の表情と、女性の足のすぐ下にある絶壁に目がいきます。

 恋人のたくましい身体に、すっぽり包み込まれるようにしてその身をあずけ、女性は、彼の太い首筋に腕をまわして、その“接吻”に、おそらくは、快以外、何も感じていない、陶酔しきった表情を浮かべています。

 足もとには、黄色とピンク(幸せをイメージさせる色ですね)の花が咲き乱れ、ところどころに、小さい青い花(冷静、悲しみのイメージでしょうか?)も見えます。

 そこだけを見れば、まさに、幸福の絶頂にある、恋人たちの絵、ですむのですが。

 

 女性の足、つま先のすぐ下には、切り立った断崖があり、恋の快楽、あるいは、その快感ゆえに、めまいなど起こしたら、きっとバランスを崩し、真っ逆さまに落ちていってしまうことでしょう。

 

 幸福の絶頂から、不幸のどん底へ……

 という見方もできますが、私の目には、それもひっくるめて、やはり、至福、この上ない幸福の絵と映るのです。

 

 もともと、激しい恋の情熱は、ぱっと燃え上がるかわりに、あまり長続きしない、「いま、ここ」の情緒の状態ですが、ともすれば、人間が社会の安寧と存続のためにつくり上げた、あらゆる垣根を破壊するだけのエネルギーをもっています。

 将来の見通し。身分、地位、家柄。あらゆる秩序や道徳も、障害や妨害も、恋の熱病にかかった二人には、むしろ、「火に油」にしかならないことでしょう。

 それゆえ、その「危険な」恋愛に枷をはめ、毒と危険を取り除き、社会の秩序の中に組み込むために、“恋愛結婚”が社会制度として広く認められるようになったと、何かで読んだことがあります。

 

 この絵を見ていて、思い出すものがもう一つあるのです。

 

 ずいぶん前になりますが、NHKの番組『地球ドラマチック』で、カナダ制作の『人と仲良くなりたかったシャチ』というドキュメンタリーが放映されたことがありました。

 群れからはぐれたシャチ「ルナ」が、カナダのバンクーバー島の湾に住みつき、寂しさからか、人間に接近し、友だちになろうとしたお話でした。

 

 住民たちの中には、ルナに対して友好的な人ばかりでなく、敵意をもつ人もおり、また、先住民たちは、ルナを、何らかの使命を帯びて人間に近づいてきた使者と見て敬い、当局の水産海洋省は、トラブルを避けるため、ルナと接触することを禁じ、ルナを群れに戻そうとし、さらに、科学者たちは、人間に近づきすぎた野生動物はケガをしたり早く死んだりしてしまうため、むやみに近づくことは危険だと考えました。

 

 立場や考え方によって異なる、人々のルナへの感情は、人間との間の壁を越えて接近してきた野生動物を、どうとらえ、どう接したらよいのかわからない、困惑の深さを現しているように思います。

 その一方で、人間に近づくことは、ルナにとっても大変危険なことでした。人々の意見が割れ、近づいてきて遊んでくれたかと思うと、放っておかれ、よけいにさびしくなって、いたずらしたり、船や飛行機にじゃれついて壊し、何らかの事故に巻き込まれる可能性もありました。また、ルナに船を壊されて殺意をもつ住民もおり、ルナを観察していたあるジャーナリストが、ルナの友人になって、ルナの身の安全を守ろうと決心します。

 しかし、そのジャーナリストが、ほんの少しそばを離れている間に、ルナは、船のスクリューに巻き込まれて、死んでしまったのです。

 

 人間に近づきすぎて、命を落とした、かわいそうなルナは、はたして不幸だったのでしょうか?

 

 人間との間にある壁を越え、命がけで近づいてきたのは、群れからはぐれたゆえの寂しさだけで、説明がつくのでしょうか。

 

 ドキュメンタリーは、たしか、このような言葉で結ばれていました。

 

 「友情とは、人間が考えているより大きいもの」ではないのだろうか…。

 

 クリムトの『接吻』で、恋する二人の足もとにひそむ断崖。

 友だちになりたくて、人間に近づいた、ルナの命を奪った事故。

 

 恋と、友情を、同じものとして語ることはできませんが、私には、この二つが、どこか根底のところで深く結びついているように思われたのです。

 

 生と性、愛と死は、同じ何かの裏と表であり、分かちがたい全体であり、日ごろイメージしている幸不幸で測ることのことのできない、想像を絶する深淵が、そこに広がっているのかもしれません。