「いったいみなさんは、人間の本性に利己主義的な悪が関与していることを否定する義務を感じなければならぬほど、上司や同僚から親切にされたり、敵に義侠心を見出したり、周囲からねたまれずにいたりしているのでしょうか。」
人間について(自分もですが)不思議に思うのは、自分自身のカテゴリー-例えば、人間だとか、日本人だとか、○○県人だとか、年齢だとか、性別だとか-、についての感情が、一般的とか、主流だと感じられているイメージに、流れていき、そこで固着しやすいということです。
たとえば、人間である、ということ。
人間は、過ちを犯す。完全な人はどこにもいない。人は、神ではない。
そんなことは、いつでもどこでも言われてきたおぼえがありますが、なぜか、「人間的」とか、「人間性」について、ことさら冷静な論説があると、とたんに感情的な反発が吹き出してくるのは、いったいなぜなのでしょうか。
精神分析の創始者、フロイトは、それまで「自分こそが自分の主である」、「自分のことは、すみからすみまで、洗いざらい、自分が一番よく知っている」、という、人間に関する常識を、根底から覆して見せました。
日常的な、何気ない自分の行動や言葉、あるいは性格に大きく影響しているのは、日頃、「私は」で意識されている「私」ではなくて、私が知りもしない「私」、つまり、「無意識」だというのです。
ここでいう無意識とは、自分にまつわる一切の過去であり、できごとや、それによって引き起こされた感情や感覚、思考、自分や他人の言動、つまり、その人が生まれてから現在までの記憶のことです。
私たちは、子どもの頃(ものごころついた頃)から今までのことを、すべて「おぼえている」わけではなく、そのほとんどを忘れてしまいますが、フロイトによると、一度経験されたものは、忘れたからといって消えてしまうのではなく、心の奥底に刻まれて残るというのです。
人の精神構造とよく似通っているといわれるパソコンにたとえれば、忘れられた記憶というのは、いわば「ファイル名」が削除されてしまったため、検索できなくなったデータであり、ご存じのとおり、その内容についてはパソコンに残っているので、技術さえあれば、その“潜在データ”に簡単にアクセスできてしまうわけですね。
いま、自分について思い出せる記憶は、「氷山の一角」にもたとえられ、一度も意識されないか、あるいは意識されながらも忘れてしまったものが、記憶の体系の大半であり、水面下に沈んでいます。
ことに、その人自身の意識の統合にとって邪魔になる不都合な真実であるがゆえに、むりやりその記憶を無意識下に抑え込んでしまう(臭いものにふたをするということですね)ことが、のちのち、様々な心の病や問題行動を引き起こす、と、フロイトは考えました。
ですが、だからといって、フロイト自身は、こうしたいわば「心の病理」を「異常」、あるいは「悪いもの」としたわけではなく、むしろ、どんな人の心にも存在しており、心の深遠さを、これほどわかりやすいかたちで見せてくれるものはなく、彼はそこから奥へ奥へ、人間の秘密をたずねていきたかったのではないかと思うのです。
私は、精神分析の手法や実際の方法論については専門外で、よくはわかりませんが、そうしたもの抜きでも、フロイトが示した人間観は、二十世紀最大の発見だといっていいのではないかと思います。実際、フロイトの人間観は、精神分析のみでなく、哲学や芸術など、多方面に大きな影響を与えたといってよいでしょう。
ですが、少なからぬ人々にとって、そうではなかったようです。
人間性の価値を、自虐的に貶めた、と映ったのでしょうか。
性的な欲動と、「自傷他害行為」を引き起こしかねない攻撃欲求は、人間社会の秩序を脅かすものであり、タブーとされますが、フロイトはそれを、「人間性」の原動力のようなものと主張し、人間観そのものが岐路に立たされていた近代の反逆者の役割を、意図せず担わされることとなったのではないでしょうか。
性的なものや、攻撃性は、人間性として受け入れがたいのが常のようで、それがたとえ、他者の権利侵害に値せず、個人の自由の範囲に属するもの、つまり、必ずしも犯罪ではないものに対しても、かなりの不快を引き起こし、場合によっては、偏見や差別を助長し、結果的に迫害することになっても、そちらの方には、意外と鈍感でいられたりもするのです。
《(2)へつづく》