他人の星

déraciné

「大人とは、裏切られた青年の姿である。」(2)

 

 太宰の言葉に、話を戻したいと思います。

 

 彼は、故郷の津軽で、もとは自分の家の使用人だった「T君」と再会し、子どもの頃のように、親しみのあかしとして、その先の道中へ「一緒に行かないか」と誘おうとするのですが、遠慮して、言えませんでした。

 

 この「大人らしい」遠慮は、過去、「見事に裏切られて、赤恥をかいた」経験の積み重ねと、それによって学んだ「用心」から生じたのです。

 たとえば、「一緒に行かないか」と言っても、「T君」がいかにも気乗りしないようすで、「ノー」と断ってくるかもしれないし、あるいは、迷惑がられるかもしれない、それによって、自分がとてもまずいことを言ったような、余計なことをしたような、恥ずかしい気持ちになるかもしれない、ならば、はじめから言わない方がいいだろう、という思いがブレーキになって、太宰は、言葉をのみ込んだのではないでしょうか。

 

 もう少し広げて考えれば、常に(あるいは肝心なときに)、自分の味方だと思った特定の相手が、一緒に行動してくれるだけでなく、考えや価値観、気持ちまでも共有してくれると思っていたのに、否定されたり、拒絶されたり、思わぬところで反旗を翻されたりする場面に何度も遭遇しているうちに、「ああ、人はあてにならないものなのだ」、と確信する、ということなのでしょう。

 

 そしてまた、太宰の言う「人は、あてにならない」、というのは、「人をあてにしてはいけない」という、いわば他人依存をやめて自立(自律)せよ、というきれいごとを言っているのではないと、私は思うのです。

 

 ずっと、自分の味方だと思っていた人。可能な限り、行動をともにしてくれたり、同じような価値観や考え方をもっていて、何より、気持ちをわかってもらえると信じていた人。

 

 そんな相手が、自分の誘いを断ったり、相反するような意見を言ったり、気持ちをわかってもらえなかったりして、ひどく心が傷ついたとき、人は、どんなふうになるのでしょうか。

 

 おそらく、その人に対して、強い怒りと憎しみを感じるのではないだろうか、と思うのです。


 だからこそ、「裏切り」になるのです。

 

 「裏切ったな」、という言葉は、冗談で言ったのでもない限りは、あまりおだやかな表現ではありません。鋭い刃物のような響きがあると、私は感じます。


 味方だと思っていた相手から、突然切りつけられた驚愕が、怒りと憎しみに変わり、「裏切ったな」、という言葉(あるいは思い)とともに、今度は、自分が相手を切りつけて、切り捨てるのです。

 

 そうしたことを、何度も何度も繰り返し経験するうちに、「青年の大人に移行する第一課」としての、「人は、あてにならない」、という発見に至るのではないのでしょうか。

 

                             《(3)へ つづく》