他人の星

déraciné

『カッコーの巣の上で』 (3)

自由と「死」

 最終的に、マクマーフィは、病院(特に婦長)にとって危険分子と判断され、ロボトミー手術を受けさせられてしまいます。

 

 そして、聴覚障害者を装っていた最初から、マクマーフィともっとも親密な関係にあったといえるチーフが、マクマーフィを窒息死させた後、いわば、マクマーフィの意志を継ぐように、病院から逃亡します。
 

 そのとき、チーフは、病院の水飲み台を持ちあげ、それで窓ガラスを破壊して外に出るのですが、それは、映画の前半で、マクマーフィが試み、力が足りずに断念したやり方だったのですから、とても象徴的だと思います。

 

 すべての自由意思を奪われ、人形のようにぐんにゃりしたマクマーフィを窒息死させる直前、チーフは、「こんなところにひとりではおいていかない」、と言います。

 チーフにとっては、それが、マクマーフィを、体(=生)の呪縛から解き放つ方法だったに違いありません。


 チーフの行為については、おそらく、賛否両論、意見の分かれるところなのではないかと思います。


 もし、体が自由にならなくなったとき、あるいは、周囲の思うその人らしさが失われたとき、それをどう捉えればよいのか、どうすればよいのか、人それぞれ、様々な考えはあっても、どこにも正解がないからです。

 

 

 マクマーフィが、窒息死させられたとき、私が感じたのは、安堵でした。


 映画全般を通して、私は、患者の誰かになったり、マクマーフィになったりしながら見ていたのですが、その場面では、マクマーフィに感情移入し、私なら、一緒に行こう、と言ってくれているチーフに、「一緒に行こう」、「連れていってくれ」、と言いたかっただろう、と思ったからです。

 

 

 この映画は同時に、人間の集団であるところの社会がつくり出す「秩序」という壁と、個別性をもつ人間ひとりひとりとの関係を、もっと大きな形で暗示していたようにも感じました。

 

 人間が体験している現実は、たとえ同じできごとであっても、それが喜ばしいことであったり、腹立たしいことであったり、何でもないことであったり、あるいは、死ぬほど苦しい挫折を意味することもあり、決して一様ではありません。

 

 ですが、「秩序」というものは、一度できあがると、婦長ラチェットが象徴するように、かたくこわばり、柔軟性を失い、現実的な世界の在り方が、それぞれの人にどんな感情の状態をもたらすのかが、まったく無視されてしまうのです。

 

 
 病院から逃げ出したチーフには、病院の外へ出れば、自由に生きられる可能性が示されています。


 それに対して、死んだマクマーフィには、死ぬのでなければ、もはや、本当には自由になれないのかもしれないという、宗教や哲学などの側面から論議されるような、大きな問題に打ち当たるものを含んでいるように思います。 


 この映画でいえば、病院の外に出さえすれば「自由」になれるのなら、目指すべき目的もみつかるでしょうし、希望もあり得ますが、たとえば、もし、病院を出ても、病院の外の社会もまた“病院的”であったとするなら、いったいどう考えればよいのでしょうか。

 

  

 この映画が上映されたのは、1975年であり、人間のもつ不可解さや矛盾、退廃的な側面を排除せず、ある程度の自由を許していた、当時のアメリカの「健全」さが、心強い味方として、背景にあったといえるでしょう。

 だからこそ、これほどまでに、人間と人間関係、社会との関係について、深くえぐってみせることができたのではないかと、つくづく感じる映画だったことに間違いはありません。

 

 

                                 《おわり》