「わたし」は何からできているのかー映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から(4)
「社会の子」
Here I am walking naked through the world
Taking up space,society's child
Make room for me,make room for me,make room for me
「裸で世界を歩いてる
ここにいるんだ、僕だって、社会の子どもだよ
場所をあけてよ、居場所がほしいんだ、僕に居場所をつくってよ」
― MR.BIG “Goin' Where The Wind Blows” 1996年
かなり乱暴なくらいに、意訳しました。
おとなも子どもも、みんな言いたい気持ちを、ストレートに表現している歌詞だと思います。
なかなか、こんなに素直には、言えないかもしれませんが…。
この世に生まれてきた以上、子どもは、生きていくために、二つのことを学ばなければなりません。
一つは、まったく知らないこの世界を理解していくこと、もう一つは、この世界と関係をとり結んでいくことです(滝川一廣著『子どものそだちと臨床』日本評論社,2013年)。
子どもは、先に生きている大人たちが理解しているのと共通の方法によって、この世界を理解することが求められます。その一つとして、言語があります。私たちが、リンゴを「リンゴ」、「山」を「山」と表現できるのは、ものや概念と、言葉を結びつけて教えてくれた人がいるからです。
そして、この世界と関係を結ぶということは、端的には、他人との関係の中に入っていくことを意味します。
そのため、世界を理解することと、世界と関係を結ぶことは、互いに影響し合いながら、発達していくのです。
大人についても、同じことがいえるのではないのだろうかと、私は思うのです。
私たちの住む社会では、事件やできごと、言葉や表現の賞味期限は、とても短くなっていると感じます。
情報の波は、いまや私たちをのみ込んでしまい、足はつかず、波間に浮かんだり沈んだりして、呼吸するのがやっとのようにも思います。
生まれたときから、慣れ親しんだ価値観や、生きるために学んだ術を、そう簡単に手放せるはずもなく、私たちは、自然と、こう思うクセがついているのではないでしょうか。
とにかく、何とかして、ついていかなければ、と。
人間の子どもは、他のほ乳類と比較しても、放っておかれたら生きてさえいられないほど未熟な状態で生まれてくるので、まるでトラウマのように強い印象で、孤独は死と結びつけられているのではないでしょうか。
だからこそ、自分の意識や認識を越えた奥深いところから、ひとから必要とされ、役に立つ人間にならなければ、という、強迫観念にも似た焦りに突き動かされ、失敗すると、無力感や無能感にとらわれて、ひどく苦しんでしまうのです。(この“苦しみ”さえも、はっきり自覚できるとは限らないでしょう)。
ある意味、人間はとてもけなげで、その世界がどんなものであれ、その価値観を好きだろうと、嫌いだろうと、冒頭にあげた歌詞のように、(何でもするから、)「居場所をつくってよ」、という気持ちを、心のどこかから、消すことができないのではないかと思うのです。
話を、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』に戻します。
4歳の少女、アマンダの母親へリーンもまた、社会の子として生まれ、この世界を、すでに先に生きていた人々と同じような方法で理解し、世界(他人)に受け入れられようとしたのでしょう。
彼女の、衝動を我慢できないという性質は、ある側面において、近代化した社会システムが想定する消費的行動としては、大変都合がいいものなのです。悩んだり、迷ったり、さんざん考えたりせずに、衝動的にものを買ってくれる方が、利益につながるわけですから。
ひどく欲望をあおっておいて、その一方で、ひどく我慢を強いられ、人間を、重度の欲求不満にさせておくのが、現代社会のしくみなのかもしれません。
へリーンもまた「社会の子」であり、母親を通して侵襲してくる「社会」の影響を、否応なく受けて生きていくアマンダは、「社会の子」である私たちを、そのままに映して見せている、といってもよいのではないでしょうか。
心の奥深くに植えつけられている「善き人間」像に気づかずに、誰かが「失敗をやらかした」と感じると、反射的に、その人を「自己責任」といって切り捨てたくなることが、私にもあります。
けれども、こんなふうに考えているうちに、現実には、完全に誰か一人の「自己責任」だといって責め立てることができることなど、この世にあるのだろうか、と思うのです。
最後に、もう一度、この言葉をあげて、しめくくりたいと思います。
“人間を形づくるのは 自分以外の何かだ
住む街 隣人たち 家族
肉体が 魂を包み それを街が包み込む”
映画『ゴーン・ベイビー・ゴーン』2007年(アメリカ) より
《おわり》