他人の星

déraciné

『ジェイコブス・ラダー』(3)

「現実」ー夢と幻想の間に

 

 この物語は、ジェイコブが戦場で刺され、瀕死の重傷を負ってから、野戦病院に運ばれて、様々な治療を施されたのち、最期に力尽きて死ぬまでの間に見た、彼の夢、幻ということになるのでしょうか。

 

 ですが、夢や幻で片付けてしまうには、この物語は(おそらくは、それがつくり手側の意図していたところだったのかもしれませんが)、あまりにも生々しく、リアルに感じられます。

 

 ところで、私たちの思考や感情、あらゆる生命活動を司る「脳」は、夢や幻をつくり出す装置である、といわれています。

 その考え方が正しいとするのなら、私たちが“現実”だと思っているものには、すべて、疑問符がつきます。

 

 なぜなら、私たちが考えたり気がついたり理解したりできるのは、この「脳」によってであり、この「脳」の中に存在しないことについては、正しく考えたり判断したりすることはできないからです。

 

 そのあたりについては、様々な分野の研究者や学者、哲学者、芸術家と芸術作品によってすでに表現し尽くされた感がありますが、実際、私たちは、現実に起きたできごとや、他人の存在、記憶についてもすべて、それがほんものであり、正しいのだということを証明する術をもっていません。

 

 

 ところで、私は、映画を見ても、ほとんど日常生活にその影響が出なくなった今でも、『ジェイコブス・ラダー』を観たあと、数日間ほどは、時折、妙なひらめきにとらわれる瞬間がありました。

 

 もしかしたら、私の身体は、本当は、どこかで死にゆく過程の中にあって、意識もなく、体も動かない状態にあるのだけれども、生きて、ふつうに考えたり動いたりしている夢を見ているのではないのだろうか、それが、いまの「現実」というものなのではないだろうか………

 

 
 そのような不可思議な感覚には、特有の、ふわふわした浮遊感があって、心地良いのですが、残念なことに、一週間も経つ頃には、すっかり消えてしまいました。


 それというのも、脳は、現実と、そうでないものを混同し、判断や適応に支障が出ないよう、記憶を次から次へと上書きしてしまうのですから、当然といえば当然なのです。

 

 けれども、脳の中にあるブラックボックスか、あるいは、それ以外の何か別の可能性かはわかりませんが、人間が「現実」だけでは満足できないのはたしかであり、(このあたりについては、精神分析創始者フロイトも著書の中でふれていました)、だからこそ、私たちは、映画や小説、あるいは、たった一枚の絵画や、たった一曲の音楽の中に、様々な幻想の物語を思い描き、(あるいは、自らつくり出して)、その中に、半分ほど身を浸しながら、生きているのではないのでしょうか。

 

 

                                  《おわり》