他人の星

déraciné

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(2)

混沌とした宇宙は、人間の中にある

 

 良くんは、自分の命の恩人であるだけでなく、親愛の情で結ばれたメイツ星人の“おじさん”と一緒に、メイツ星へ帰るために、毎日、河岸で穴を掘り、そこに埋まっているはずの宇宙船を、懸命に探すのです。

 

 すべての経緯と理由を知った郷(帰ってきたウルトラマン)は、宇宙船を探すのを一緒に手伝いますが、そこへ、MATなど当てにならないといって、近隣の人々が押しかけてきます。

 彼らは、郷の説得にも耳を貸さず、良くんを“秩序を乱す元凶、宇宙人”だと信じて連れ去ろうとします。そうして、メイツ星人は、良くんをかばおうと外へ出てきたところを、警官に撃たれて死んでしまうのです。

 

 がっくりと膝をつき、言葉にできない悔しさと怒りと悲しみに、うなだれて、地面を叩く郷………。

 


 人間は、信じたいものしか信じようとはしませんし、受け入れたいと思うことしか受け入れません。

 たとえそれが科学的な真実であろうと、疑いようのない事実であろうと、そんなことは関係がないのです。

 

 そうでなければ、中世ヨーロッパの魔女狩りをはじめ、歴史上の様々な大規模、小規模問わない虐殺は起こり得なかったでしょうし、たとえ遅すぎたとしても、人類は間違いに気づいているはずですから、今日では、そうした迫害はとっくになくなっているはずです。

 

 あるいは、群衆の中には、良くんが宇宙人でないのなら、迫害する必要などないのでは、と冷静になりかけた人もいたかもしれません。


 けれども、こわいのは、場の空気です。

 

 もしも、「やめよう」、と言ったら、今度は自分が、「宇宙人をかばうなんて、お前も宇宙人だな」と言われて、次は、自分が標的になるかもしれない、というおそれがあって、言えなかったのではないでしょうか。

 

 そして、言うべきことを言わなかったことで、取り返しのつかない事態になってしてしまったとき、人は、どうやって、後悔や罪の意識というこの上ない不快感を払拭するのでしょう?

 

 そんなことは、造作もないことです。

 

 あの場では、それしかなかった、それが正しいことだったと、気持ちの中で、無意識的に、正当化してしまうのです。

 

 

 人間は、思考や想像力ではたどりつくことのできない、未知のブラックボックスの部分をもっています。

 何かによって、強い不安を感じたときに、人間の集団はときにスケープゴート(贖罪のヤギ)を求めますが、それだけでは説明のつかないものがたくさんあります。

 

 理由も理屈も明らかでないのに、何ものかを「悪」、「自分たちに害をもたらすもの」と信じ込み、血祭りにあげたり、残忍な行為そのものの中に、ひりひりするような快感と喜びを感じることのある生きもの、それが人間です。

 

 もし、人間には、そんな得体の知れない怪物のような部分などあるわけがない、とするならば、たとえば“サイコパス”などというもっともらしい呼び名で、「特異」な人間と、自分を含む「ごくふつうの」人間を区別する必要もないはずです。

 

 何か、際立って「悪」だと感じるものに名前をつけ、カテゴライズするのは、自分の中には、そうしたおそろしい要素などあるわけがない、という怯えがあるからなのです。

 

 

                             《(3)へ つづく》