他人の星

déraciné

帰ってきたウルトラマン『怪獣使いと少年』(3)

物語の役割

 

 人間の本質への、冷徹なまなざしは、さらに、「日本人」にも向けられます。

 

 MATの伊吹隊長は、郷に、こう言います。


 「日本人は、美しい花をつくる手をもちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか」

 

 『帰ってきたウルトラマン』が放映されたのは、1971年のことです。

 戦争が、まだ、今日と昨日の境目にあった時代に、故国、日本の在り方と、そこへ属する一人の人間としての、峻烈な自戒の言葉だったのではないでしょうか。 

 

  青空を背景に、さっそうと立つウルトラマンのイメージに比べ、新マンは、夕陽が似合うウルトラマンだと感じます。第37話、ウルトラマン 夕陽に死す』の印象が強いせいかもしれません。

 

 「人間らしさ」、といった場合、私たちが思い浮かべる(思い浮かべたい)のは、「美しい花をつくる手」、たとえば、あたたかい思いやりなどの、利他的な性質の方でありがちだと思います。

 けれども、「一旦その手に刃を握ると、残忍きわまりない行為をする」のも、「人間らしさ」です。

 

 そのような、「人間らしさ」の暗い顔を見たことを、記憶にとどめまいとでもするかのように、経済成長まっしぐらだった社会にも、翳りが見えはじめ、これからどこへ向かえばよいのか、よりどころを見失いつつある時代だったのだと思います。

 

  メイツ星人が、再び星へ帰るときのために隠した宇宙船が、いくら探しても、いっこうにみつかる気配がない、という話は、まるで、人間やこの社会が、二度と、もといた場所(故郷)へ帰ることはできないと、暗に表現しているようにさえ感じるのです。

 

 

 そして、映像表現として、これほどまでに、見る者に媚びず、甘やかさず、こちらが覆ってしまおうとする目を、見開かせようとするようなプライドを感じさせる作品には、出会えなくなって久しいのではないでしょうか。

 

 

 故・高畑勲氏は、物語の重要な役割の一つとして、登場人物に感情移入して、挫折(期待が裏切られること)を疑似体験できることをあげています。

 現代の物語では、受け手が感情移入しやすい属性をもつ人物が、正しさや強みをもっていて(まるで“神”に撰ばれしもののように)、挫折知らずなので、安心してついていけてしまうことを、危惧していたのです。

 

 生きていくということは、信じていたものに裏切られたり、よりどころとしていたものが突然崩れたり、挫折の繰り返しでもあります。

 

 『怪獣使いと少年』の場合、たとえば、身寄りのない良くんに感情移入した場合には、こんなときには、きっと、良くんやメイツ星人に親切にしてあげる人間が出てきて当然だ、いじめたり迫害したり、まして、殺すなんてことはありえない、という気持ちが、見る者の中に、にじみ出てくることでしょう。

 

 ところが、事態は、最悪の結末を迎えるのです。

 

 それは、見る者を責め立てたり、貶めたりすることを意図しているわけではありません。

 

 物語というものは、ふだんの生活では見たり聞いたり、体験したりできないような、「人間」や「世界」についての、理解のしかたの幅を広げてくれます。

 

 私たちは、物語の世界を、自由に歩きまわり、ときには、登場人物と同じ心の痛みを味わったり、ひどい裏切りを感じたりすることで、知らず知らずのうちに、心に耐性をつけることができているのではないでしょうか。

 

 そして、現実の生活の中で、ひどく期待を裏切られ、傷つき落ち込むことはあっても、過剰反応を起こしたり、必要以上にその影響を広げたりせずに、自分の中で処理する方法をおしえてくれるのが、物語の役割でもあると思うのです。

 

 

                             《(4)へ つづく》