他人の星

déraciné

『エレファント・マン』(5)

遠い他人の実話=“フィクション”

 

 同じものや似たもの同士を一緒くたにし、カテゴライズして名前をつけ、対応を効率化させることに長けている人間という生きものは、他方、新奇のものをどう捉えて接したらよいのかについては、ひどく不器用です。


 そのようなときには、誰か、とても影響力のある人物(いわゆるオピニオン・リーダー)の模倣をするか(たとえば、この映画では、ケンドール夫人など)、あるいは、その者が、自分よりも弱く、劣っている存在だと見るや、日頃の鬱憤のはけ口にするか(逆襲されたり、そのことによって自分が何らかの害を被るおそれや心配がないからです)、どうしても、行動が極端になりやすいのです。

 

 ですが、この一見して正反対の行動には、共通点を見出すことができると思います。

 

 自分や、他の“ふつう”とされる人々と著しく異なる(と明確に視覚で確認できる)ものに対して、人は、どうしても、無関心かつ平常心ではいられなくなるのです。

 

 人間は、新奇の刺激=わけのわからないものを、わけのわからないままで放っておくことが苦手だからです。

 

 そこに何とかして名前なりカテゴリーをつけて、“わかった”(片付けた)つもりにならなければ、気持ちが悪いのです。

 

 

 そして、いちばんの問題は、それらの行動において、無意識的にリーダーシップをとってしまう人も、あるいは、そこに引きずられ、流されていくその他大勢の人も、たいていの場合、そんなに真剣に深刻にものごとを受けとめたり判断したりしているわけではない、ということなのです。


 何となく、何となくの、気まぐれな思いつきやその場の流れが、誰かの人生を大きく変えてしまったとしても、おそらくは、誰も責任など感じることもないでしょう。

 

 誰かの実話が、遠く離れた関係のない人々にとってはドラマティックで面白い物語になることを、私たちはよく知っています。

 その人がどうなろうと、まったく自分や自分の身内の人生や生活が変わることがない場合においてのみ、私たちは、その“物語”に安心して感情移入することができるのかもしれません。

 

 けれども、少なくともそれが、ある側面で、現実を逃避するために、(責任感などなしに)面白い物語として楽しんでいるのか、あるいはそうでないのか(そうするべきでない場面なのか)、その区別はどこかでつけておいた方がいいように思います。

 

 ジョン・メリックの場合には、“善意”の人々によって醸し出された空気に押し流されて、自分の居場所を得ることができましたが、空気の流れいかんによっては、その反対もあり得たからです。

 

 その一線を、自覚もなしに踏み越えてしまったとき、見世物小屋の見物人であったつもりが、いつの間にか、自分が見世物小屋に入れられてしまっているかもしれないからです。

 

                                 《おわり》