他人の星

déraciné

『バットマン ビギンズ』(3)

「恐れる男」と「恐れない女」―ブルースとレイチェル

 

 劇中の、ブルースとレイチェルの関係を見ていて、何となく、思い出したものがあります。

 

 夏目漱石の、『彼岸過迄』という作品です。

 

 「僕は自分と千代子を比較する毎に、必ず恐れない女と恐れる男という言葉を繰り返したくなる。………僕の思い切った事の出来ずに愚図々々しているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。千代子が風の如く自由に振舞うのは、先の見えない程強い感情が一度に胸に湧き出るからである。」

                        夏目漱石彼岸過迄

 

 「恐れる男」と「恐れない女」、というはっきりとした言葉として出てくるのは、従兄妹同士で幼なじみの須永市蔵と田口千代子をめぐってなのですが、漱石の作品中の男性は、石橋を叩いて叩いて、叩きすぎて割ってしまうほどの“臆病さ”の持ち主であることがほとんどです。

 

 くねくねと、複雑に入り組んだ思考回路を、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりして自ら迷路に迷い込み、しまいに、出られなくなって苦悩するのです。

 

 それに対して、女性の方は、「いま、ここ」に生きていて、先のことなど思いもせずに、瞬間瞬間、純粋な感情と言葉を、まるで爆弾のように破裂させ、場合によっては、自分の人生を変えてしまうかもしれない思い切った大胆な行動に、まったく自覚なしに自分を投げ込んでしまおうとします。

 

 「恐れない女」は、「恐れる男」から見ると、強烈で、純粋で、美しい、と感じられることもあるのですが、他方、あぶなっかしくて、おそろしい、と感じるのです。

 

 そして、「恐れる男」は、「恐れない女」からすると、ぐずぐず煮え切らず、はっきりとした本音や感情も見せずに、何か胸算用でもしているような、“卑怯者”と映るのです。

 

 レイチェルは、ブルースが、自分の両親を殺した犯人であるチルを殺すつもりだったときき、それを知ったら、きっと、ブルースの亡くなった父が嘆くに違いないと、激しく批難します。

 

 ゴッサム・シティが、たとえどれほど道徳的に腐敗していても、自らも検事補となって立ち向かう「恐れない女」、レイチェルは、潔いほどの正義感の持ち主、とも見えますが、どうなのでしょう。

 

 人は、自分の大切な親を殺されても、目の前にいる犯人に殺意など抱くこともなく、苦しみもせずに、迷わず“善きこと”や正義に向かえるものなのでしょうか。

 亡くなった父親が、嘆こうが嘆くまいが、現に、いま生きて苦しんでいるのは、残されたブルース本人なのです。

 

 あるいは、疑いや迷い、躊躇のない正義感ほど危険なものはない、ともいえるのではないでしょうか。

 

 コウモリのみならず、両親を殺された過去、善と悪とのせめぎ合い、様々なものに惑い、「恐れる男」、ブルースは、それらを克服しつつ、「バットマン」として再生します。

 

 ですが、ここでもレイチェルは、生身のブルースの方が仮面で、バットマンこそ本体だと言い、いつか、ゴッサム・シティからすべての犯罪や穢れが消えたときに結ばれようと言って、去っていくのです。

 

 現実的に考えて、そんな日は来るのでしょうか。

 「犯罪」とは、いつも、人間の寄り集まりである社会によって、その存在意義や定義がなされるのです。

 ブルースの両親を殺したチルの背景について、劇中でも、格差と貧困の要素があげられていただけに、納得できない点が残ります。

 

 だとするならば、レイチェルの中には、もともと、ブルースに対して、恋愛関係へ至るような可能性はあり得なかった、ということになるのでしょうか。

 

 レイチェルは、ブルースがいわゆる“苦難の修行の旅路”から戻ってきたとき、ブルースのことばかり考えていた、と言っているのですが………。

 

 

 やはり、漱石は、女性を見る眼に長けていた、といわなければなりません。

 

 漱石の作中、「恐れない女」は、一方で、その気もないのに、その気のありそうなことを言ったりやったりして、男性の気を惹こうとする、「無意識な偽善家(アンコンシャス・ヒポクリット)でもあるのですから………。

 

 

                             《(4)へ つづく》