『バットマン ビギンズ』(4)
「ヒーロー」たる所以
いずれにせよ、映画の中の人物に、本気で共感したり、反発したりできるということは、人物描写が、それだけよくできているからなのだと思います。
そして、バットマンは、決して孤独ではありません。
たとえば、ブルースから、自分のことを、見放したりしないかときかれると、彼を、ずっとそばで見守ってきた執事アルフレドは、必ずこう言います。
「決して。」
“見捨てられ不安”、という言葉があります。
人は、大変未熟な生命として、この世に誕生した瞬間から、自分の世話をしてくれたり、そばにいてくれる他者に見放されたら、死ぬだけだ、という怯えを根本に抱いて生きているのだと思います。
ですから、自分のことを決して見放したりはしない、と言ってくれるだけでなく、その言葉や思いがほんものだと信じられるような他者がいるということは、それだけで、とても心強いことなのです。
船が、不安な沖に流されていってしまわないよう、つないでいてくれる“もやいづな”のような役割をしてくれる、たった一人の人間にでも、出会えるということは、実は、とても難しいことなのではないでしょうか。
ところで、私は、渡辺謙さん演じるラーズ・アル・グールが影武者で、ほんものは、リーアム・ニーソン演じるデュカードだったということに、映画を見ただけでは、わかりませんでした………。
ともかく、影の同盟が、腐敗しきった街、ゴッサム・シティを破滅させようとしているのを知って反発したブルースは、一度は、いわば自分の師匠、デュカードを助けますが、結局は、彼と対決することになります。
結果は、バットマンの勝ちですが、はじめて人を殺すのか、ときいたデュカードに、バットマンは、「殺さない」、と応えます。
そして、こう言います。
「助けもしない」
影の同盟は、ゴッサム・シティを葬り去るために、「不況」をもつくり出した、と言っています。
そして、ブルースの両親を殺した犯人チルについて、貧困と生活困窮が、彼を殺人という犯罪に走らせたのだと、彼の弁護士を通して、語らせています。
だとするならば、ブルースの両親を、直接的に殺したのはチルですが、間接的に殺したのは、影の同盟とラーズ・アル・グールだということになります。
崩壊するばかりのモノレールにおきざりにすれば、ほぼ確実に“死ぬ”とわかっていて取り残すのは、いわば、死ぬにまかせる行為です。
私は、その因果関係をめぐって、いったいどこまでが“殺人”で、どこからが“殺人”ではないのだろう、と思ったのです。
直接、手をくだしさえしなければ、「殺人」ではないのでしょうか。
もっというと、たとえば、生活困窮におかれた人が、そのまま何ら支援もなく捨て置かれれば、死ぬか、あるいは、自暴自棄になって他害行為を行う可能性があるとして、それを放置したことを、どう考えればよいのでしょうか。
私たちは、人間社会に生きる者として、その社会秩序の安寧につとめ、人を殺してはならないと強く教え込まれます。
けれども、死ぬとわかっていて放置する、という行為は、ある意味で、自分と同じように“生きている”誰かの生死への責任と罪悪感を逃れる方法として、現代社会に蔓延しているように思われてならないのです。
私たち人間と違って、“翼をもつ”ヒーロー、バットマンには、その覚悟をもてるかもてないかはともかくとして、自らの手をはっきりと汚し、その責任と罪悪に苦しみつつ、生きていってほしかったのかもしれません。
それこそが、ヒーローたる所以ではないのだろうかと、私は、自分のこれまでの人生の中で出会ってきた、様々な物語を通して、思い込んでいるだけなのかもしれませんが。
《おわり》