他人の星

déraciné

裏切られた青年のためのおとぎ話 『一生分の喜びと幸せと満足』第18話(最終話)

 

 愛する夫の死を知った娘の嘆きは、あまりに激しいものでした。

 そして、夫の死んだ泉に、自分も身を投げて、死のうとしました。


 すると、そのときです。

 とつぜん、あの魔女が現れ、泉に落ちた娘をすくいあげました。

 

 魔女は、気を失った娘が目を覚ますと、こう言いました。


 「嘆くのは、もうやめなさい。おおかた、おまえは、自分のこれまでの行いのせいで、どんなにか、王子を苦しめてしまったことだろうと、悔やんでいるのであろう?そうして、自分が王子を殺したのも同然だと、思っているのであろう?うぬぼれるのも、いい加減にするがいい。」


 強く、気を引き立てるような魔女の言葉に、娘は、激しく泣き出しました。

 魔女は、言葉を続けました。


 「おまえはもとから、できもしないことをしようとした。そして、ありもしない結末をまねこうとした。王子は、最初から、あの日に死んでしまう運命にあった。それを、おまえは、助けたいと願った。自分の一生分の喜びと幸せと満足とひきかえに。しかし、おまえはそれをし損なった。そうだね?……ところが、王子が死んでからというもの、おまえはずっと嘆き続け、結局、自分の一生分の喜びと幸せと満足を、それとは知らずに、手放すことになった。だから、わたしは、王子をよみがえらせた。それからのことは、本来、王子の運命にはなかったことなのだよ。だが、わたしは、知りたかった。命、命と、これほど大切なものはない、といいながら、なぜ人間は、命を捨ててまで、わたしのところに来るのか。命より大切なものがあるとしたら、それはいったい何なのだ?誤解してはいけないよ、決して善意ではないのだから。わたしは、人から大切なものを奪い、それとひきかえに、願いを叶える魔女だ。だから、人からいちばん大切なものを奪うことが仕事なのだよ。それで、ずっと、おまえたちのようすを、見させてもらった。おかげで、ほんの少し、暗示を得た気がするよ。」


 娘は、不用意に、魔女の、銀色に光る瞳を見てしまうところでしたが、魔女の方で、目をそらしました。


 「気をつけなさいと、言ったであろう?死にたくなってしまうから。」


 「………でも、おばあさん。あの人を失って、わたしは、これからどうすればいいのか、わからないのです。」


 「いまはまだ、そのときではない。王子は、ほんの少し、遅れて自分のもとへ来るであろう、おまえを待っているよ。真に信じ合うものどうしは、決して生死で隔てられはしない。おまえは、それをよく知っているであろう?………かたちあるものは、必ず滅びる。あの国も、そのとなりの国もそのまたとなりの国も、いずれすべて滅びる。わたしには、それが見える。だが、死や滅びは、場合によっては救いとなる。その意味は、いまのおまえならわかるであろう?」

 娘は、魔女の言葉を聞き、涙を流しました。

 泣くことのできるあいだは、泣いていた方が、ずっと気持ちがらくになるものです。

 

 魔女は、言いました。


 「いいかい?おまえの嘆きは、ひとりの一生分を超えてあまりある。おまえは、ふたり分ほどの一生分の苦しみを味わい、悲しみを泣いた。……だから、わたしはもう、おまえからは、何もとらないよ。」


 魔女は、ほんの一瞬、冷たい手で娘の背にふれると、すっと、姿を消しました。

 

 魔女の残した冷たい手のあとは、次第に、冷えた娘のからだをあたためていきました。

 

 娘はやがて、自分のそばで、心配そうにみつめている息子の姿に気がつくと、わが子をぎゅっと胸に抱きしめました。

 すると、胸の奥の、重苦しい痛みが、少しずつ、ほぐれていくのがわかりました。

 まだものごとがよくのみこめない幼(おさな)子(ご)は、無邪気な笑い声を立てました。

 息子の瞳は、かぎりなく澄んだ、蒼いかなしみの色でした。

 

 娘は、それからしばらくのあいだは、日中のいとなみを終えて、夜の闇のなかで横になると、ひとりでに涙がこぼれてくることもありました。

 しかしそれは、むかしのような、永遠に続くかなしみではありませんでした。

 それはまるで、夢のようにこっそりとおとずれ、娘を癒したかと思うと、翌朝には去っていったのです。

 

 娘はやがて、幼き日の王子とともにいたころのような微笑みと、ハシバミ色の瞳の輝きをとりもどし、王子に生きうつしの息子をいつくしみながら、幸せに暮らしました。

 

 そして、王子の死から二十年がたつころ、立派に成長したわが子に見守られながら、静かにこの世を去りました。

 

 あとにのこされた碧眼の息子には、母親の分の、喜びと幸せと満足があたえられていました。

 ですから、人生のすべての喜びとともに、世界の深淵を見る満足、生の寂寥と孤独を知る幸せが、彼を去ることは、決してなかったということです。

 

                                  《おわり》