他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイト』(2)

ジョーカーの“物語”

 

 映画を見ている間、私は、「ジョーカー」の中に、一度入ったら出られなくなるような、深い落とし穴のような、けれども、とてつもなく魅力的な、一つの世界を見ていました。

 

 彼は、素顔の上に、道化師のメイクをほどこしていますが、口が裂けたような傷がある理由について、二つの話をします。

 

 一つ目は、マフィアのリーダーのうちの一人、ギャンボルを殺すときに話した物語です。

「俺の親父は―酒浸りで酔っては暴れた ある夜あんまりひどく暴れ狂ったもんで―お袋は包丁で防衛 親父はそれが気に入らなかった まるっきり ただの 少しも 親父は俺の目の前で お袋を刺し殺した 笑いながらな そして俺を振り向くと言った “そのしかめツラは何だ” 親父は近づいてきた “そのしかめツラは何だ?”俺の口に刃を入れて―“笑顔にしてやるぜ” そして…」

 

 もう一つは、ハービー・デントを探して、セレブたちのパーティを急襲し、レイチェルの顔にナイフを当てて話した物語です。

 「俺には あんた似の美人のカミさんがいた 口癖は “シケた顔しないでもっと笑いなさいよ” 彼女はギャンブルに明け暮れて借金漬け 脅しに顔を切られた 手術の金もなく泣き暮らす彼女 俺は笑顔が見たかった 傷があってもいいと伝えたかった それで―カミソリを口に入れて裂いた 自分でな どうなったと? 醜い顔がたまらないと―彼女は出て行った 笑えるだろ 今の俺は笑いっぱなしだ」

 

 どちらが本当の話か、あるいは両方とも本当か、嘘かはわかりませんが、「ジョーカー」は、かなり長い年月の間、「笑顔」以外のすべての表情を失った(奪われた)ことになります。

 

 たとえば、「悲しいから泣くのか」、「泣くから悲しいのか」、あるいは、「おかしいから笑うのか」、「笑うからおかしいのか」、という話になるのですが、感情が先にあって、行動があとに来ると常識的には思われがちです。


 けれども、実際にはその逆で、意識されない行動(表情など、顔を動かすことも入ります)が先行して持続するうちに、やがて“意識”がそれに気づき、合理的な理由が後付けされる、ということが、認知科学によって、明らかになっています。

 

 彼の口はいつも、まるで笑っているように裂けているのですから、他人から、様々な状況や場面で、いわれのない迫害や差別を受けたりしただろうことも、容易に想像がつきます。

 

 そして、悲しくても、腹が立っても、ずっと「笑いっぱなし」の彼は、そのうち本当に、悲しみも怒りも憎しみも、人間のすべての行ないも、世界も、お金も、権力も、すべてが「ジョーク」に映るようになり、そこから、自分や他人の生き死にすらジョークになるまで、それほど遠い道のりではなかっただろうと思うのです。

 

 

                             《(3)へ つづく》