他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイト』(5)

「たった一人の私」?

 

 さて、ジョーカーは、ゴッサム・シティの市民にゲームを強要し、従いたくない者は、街を出て行くよう、促します。

 橋には爆弾が仕掛けられており、船で逃げるより他に方法はなく、結果的に、市民たちは、まんまと、ジョーカーの狙いどおり、最後の大がかりな“ゲーム”に参加させられることになります。

 

 2隻の船の、一方には、ごく普通の、善良なる市民、そしてもう一方には、囚人が乗っています。

 

 そして、両方の船に爆弾を仕掛けたジョーカーは、12時になると、両方の船が爆発する仕掛けになっているが、どちらか一方がスイッチを押して、一方の船を爆発させれば、スイッチを押した方の船は助かる、と告げます。

 

 ネタバレになりますが、結果を先に言えば、善良な市民の方も、囚人の方も、結局、すんでのところでスイッチを押さずに12時をむかえ、ジョーカーは捕まり、事なきを得ます。

 

 私は、最初にこの映画を観たとき、両方の船ともスイッチを押さなかった、というのは、人間の本質への信頼と楽観に基づく展開であって、現実には、助かりたい一心で、両方ともスイッチを押すだろう、と思いました。

 

 けれども、二度目に観たときは、まるで違う考えをもつに至りました。

 

 これは、ジョーカーの誤算だ、と思ったのです。

 

 善良なる市民も、囚人たちも、「ジョーカー」にはなり得ないからです。

 

 人間は、たった一人の「私」、という意識を、なぜもっているのでしょう?

 まだ謎の部分は多いのですが、脳のしくみや、認知科学の研究がすすむにつれ、唯一無二の、「昨日の私」=「今日の私」=「明日の私」という統一感のある「私」という意識は、物理宇宙の法則の中で、人間が生きるために発明したものだ、という説が出てきました。

 そしてまた、この、たった一人の私、という感覚は、人間社会が効率的、円滑にすすんでいき、そこに個々人が適応するのに、欠かすことのできないものなのです。

 

 たとえば、選挙は一人一票と決まっていますし、何か犯罪を犯せば、犯人が特定され、罪に見合った罰が科せられます。

 この、刑罰、というのは、つまり、人間社会において、造反者を出したり、秩序が乱されることがないようにする、いわば「みせしめ」の意味をもちます。

 社会的動物である人間は、ジョーカーのように、“振り切れている”人間をのぞいては、自らが属する共同体からのけものにされることをひどくおそれますから、犯罪者を孤独にさせることは、犯罪を抑制する効果があるのです。

 

 つまり、社会は、「自由意思」により判断・行動する(これも幻想ということになりますが)、何かあれば自己責任に問われる「個人」の集まりであると同時に、助け合うにしても、疎外し合うにしても、他者、という人間集団の監視や連帯から、決して自由ではありません。

 

 しかし、「ジョーカー」は違います。

 

 彼にとっては、世界のすべてがジョークであり、誰との間にも社会的なつながりをもっておらず、そんなことを、望んですらいません。

 

 これに対して、2隻の船の、「善良なる市民」の群れと、「囚人」の群れはどうでしょう。

 

 スイッチは、それぞれの船に一つずつであり、押せば、誰が押したかわかります。

 つまり、責任の所在が、誰から見ても明白で、言い逃れはできません。

 

 こうした状況下で、ある種、英雄的な“勇気”をもって、単独で、スイッチを押せる人は、どれくらいいるのでしょうか。

 

 たとえそれ以後、「あいつがスイッチを押したんだ、あいつが殺したんだ、俺(たち)じゃない」と言われて、ずっと、後ろ指さされることが想定されても、スイッチを押すことができるのでしょうか。

 

 私は、それこそが、ジョーカーの誤算だったと思うのです。

 

 人間は、誰しもそうですが、ジョーカーもまた人であり、自分以外の人間の考えることやなすことを想像するのは、大変に困難で、その結果、このゲームは失敗に終わった、といえるのではないでしょうか。

 

                            《(6)へ つづく》