わたしが なくした もの
「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」
西条八十『ぼくの帽子』
子どもの頃から、不注意で、いろんなものをなくしました。
なくしものは、なくしたいと思ってなくすわけではなく、他の人から見たら、たいしたものではなくても、身につけていたり、持っていたりしたものをなくすと、そのたびに、ずいぶん落ち込みました。
小学2年生の頃、定期入れにつけていた、白い小さな鈴を、どこかで落としてしまったことがありました。
バスに乗ってから気がつき、私は、椅子に座ったまま、がっくりとうなだれ、ランドセルにつないでいた定期を通路側にたらして、茫然自失状態でした。
「(定期券は)見たから、もういいよ。」
そう言ったのは、バスの車掌さんの、女の人でした。
当時はまだ、バスに車掌さんが乗っていた時代で、乗降のとき、車掌さんが扉の開け閉めをしていました。
降りるときに、車掌さんに運賃を渡すのですが、運賃と一緒に、車掌さんに飴をあげるお客さんもいて、何だか、車内はなごやかな感じでした。
何だかわからないけれど、まだ小さい小学生の女の子が、落ち込んで、ぼんやりしているのを見て(私はそのとき、ちょうど、車掌さんが立っているすぐ横の椅子に座っていました)、声をかけてくれたのかな、と、そのとき思いました。
あの鈴、ずっと、一緒だったのに。
落とされて、置いていかれて、泣いているかも………
そう思うと、悲しくて、残念で、私の方が、置いていかれた鈴のようで、淋しくて、心細くて、仕方なかったのです。
小学生のときの、落としもので、もう一つ、覚えているのは、「お金」です。
しかも、二千円も(小学生が、どうして、そんな大金を持っていたのかは、忘れましたが)。
たぶん、バスの中で、落としたのだと思います。
家に帰ってから、ないことに気がつき、母に言うと、母は、両手で顔をおおって、泣き出してしまいました。
「どうして、あんたは、そうなの………。」
私は、意外と、あっけらかんとしていたのですが、母が、あまりに深刻ぶって、真面目に泣くので、私は、ずいぶんとんでもなく大変なことをしてしまったのだな、と思ったのです。
そんなふうにして、落としものをするたびに、落ち込んだり、つらい思いをして、そのときは“懲りる”のですが、性質までは、どうも、どうしても直らないようで、その後も、大事なものから、それほどでもないものまで、ずいぶんたくさん、あちこちに落として、なくしてきました。
時折、ぽっと思い出しては、ああ、あれは惜しかったなぁ………などと、ひとしきり、むかしの感傷に浸ることもあるのですが、いまなお、ものを落としてきたり、なくしたり、置いてきたりは、いっこうに直るようすがありません。
ところで、冒頭にあげた詩は、森村誠一『人間の証明』で有名ですね。
私にとっては、まさに、落としものやなくしものをするのが、「人間の証明」のようなもので、これから、年を取るにしたがって、どんどんひどくなる一方で、そのうち、ものすごく大事なものをなくして、茫然自失、落ち込んだりしたくもないのですが、人間が人間ですから、きっと防ぎようがないのだろうな、と、いまからおそれています。