他人の星

déraciné

『バットマン ダークナイトライジング』(4)

満ち足りた「死」を死ぬのか 満たされない「生」を生きるのか

 

 『ダークナイトライジング』の最初の黒幕、ベインは、マスクをつけて絶えず薬を吸引しなければ地獄ほどの苦痛を免れ得ず、バットマンは、彼に、「起爆装置の場所を教えたら、死ぬことを許してやる」、と言います。


 同様に、ブルースもまた、地下牢獄「奈落」に監禁されたとき、ベインから、「ゴッサムが灰と化したら、死ぬことを許してやろう」、と言われているのです。

 

 「死ぬことを許す」。

 つまり、そのときまでは、「生きる苦しみをたっぷりと味わうがいい」、ということです。

 「死」に安らぎと救いをおぼえる者にとって、生きながらえることは、まさに、「地獄の苦しみ」でしかないのです。
 


 執事のアルフレッドは、バットマンに戻ろうとするブルースに、「もっと違った幸せを願っていた」、と言います。


 フィレンツェのカフェで、ふと向こうのテーブルを見ると、ブルースとその妻、子どもの姿が見える。そうして、お互いに声はかけない、そういう幸せです。

 

 ですが、私は、疑問に思うのです。


 幼い頃から、ほとんど親代わりのようにしてブルースを見てきたアルフレッドが願う幸せは、まさに、老婆心でもって願う、子どものごく普通の幸せ像です。


 自らにふさわしい相手をみつけ、結婚し、子どもを産み育てる。

 けれども、それが本当に、“幸せ”なのでしょうか。

 

 少なくとも、バットマンとして闘いを重ねてきたブルースは、そうした小市民的幸せになじむことができるのでしょうか。


 

 バットマンは、ブルースに、「臆病でない私」としての存在意義を与えましたが、同時に、「弱く在る私」、としてのブルースの存在意義を奪いました。
 そして、その闘いは、ブルース自身の、人間への基本的態度や信頼、死生観に関する潜在意識を、変えていったのではないでしょうか。

 

 悪は強く、執拗であり、深く人間に根ざしており、従って、この世に人間が存在する以上、根絶することはできないということを、いやというほど、心の内奥に刻み込んだ者は、もう二度と、何も知らなかった頃の楽園に戻ることはできないのではないかと、私は思うのです。

 

 カフェでも、レストランでも、野外キャンプ場でも、どこでもいいのですが、そこにいる家族たちは、たしかに、「幸せ」そうに見えます。

 

 けれども、私は、家庭というものは、一種の、日常的地獄ではないかと思っているのです。

 誰が、いったいいつの間にそれを、「幸福」と名付け、それを無上の「幸せ」だと思い込むように刷り込んだのだろう、と、不思議に思います。

 


 いずれにせよ、闘いを通して、バット・スーツの隙間から入り込んできた空気を通して、「何かを知ってしまった」ブルースが、今さら「知らぬ」ふりをして、小市民的幸福(不幸)の中に身を投じることができるとしたら、それは嘘偽りだとしか、私には思えないのです。


 暮れる陽の光を浴びて、“バット”で核爆弾を沖へ沖へと運んでいくバットマンの表情は、これまでになく満ち足りて、穏やかです。


 自らにふさわしい死に場所を得ること、使命を帯びた死を死んでいく充足感。


 生きることそれ自体が、過酷であるがゆえの苦しみを生きることもまた、それはそれで素晴らしいものでしょう。

 

 けれども、答えはそれだけではないような気がするのです。

 

 私たちは、自分にとって大切な人、身内、あるいはそれだけでなく、自ら感情移入した物語の中の人物にさえも、「生きていてほしい」と願わずにいられないほどの“さびしがりや”です。


 ひとり取り残されて生きる孤独は、どれほどおそろしいものでしょうか。

 考えただけでも、身震いするほどです。

 

 死はおそろしいものですし、私など、人の何倍もの臆病者ですから、その間際になればきっと間違いなく、いやだ、こわい、死にたくないと、みっともなく大騒ぎして、周囲にひどく迷惑をかけることでしょう。

 

 落ち着いて、穏やかに、自らの死に向き合うことなど、できないだろうと思います。

 

 だからこそ、せめて、物語を楽しんでいる間は、その世界に全く関係のない異邦人、赤の他人、旅行客として、静かに、その生死に向き合わせてほしいと願っているのです。

 

 

                                  《おわり》