他人の星

déraciné

『ウィンド・リバー』(1)※ネタバレあり

 

 “草原がなびく 私の理想郷
 風が木の枝を揺らし
 水面がきらめく
 孤高の巨木は
 優しい影で世界を包む
 私は このゆりかごで
 あなたの記憶を守る
 あなたの瞳が遠く
 現実に凍えそうな時
 私はここに戻って目を閉じ
 あなたを知った喜びで
 生き返るの”


 映画の冒頭にあげられていた詩です。

 主人公、コリー・ランバートの、亡くなった娘が書いたもの、ということになっています。

 

 現実の厳しさをも感じさせつつ、おだやかな楽園を思わせる詩とは裏腹に、放牧された羊たちを狙うオオカミを、ランバートの銃が容赦なく打ち抜きます。

 その銃声は重く、鋭く、大きく、響き渡ります。

 この不吉で鋭い破裂音は、劇中、いやというほど聞かれることになりますが、それだけでなく、撃たれた衝撃で吹き飛ぶ人間、青ざめた死に顔、流れ出る鮮血、そして、性的暴力など、暴力の描写がかなり強く印象に残ります。

 

 実際、私は、この映画を見終わったとき、見るのではなかった、と思うほど、不快感と拒絶感でいっぱいになったのです。

 

 

「あぶれものは、あぶれものを憎悪する」

 

 私は、ネイティブアメリカンと白人との間に、どんな深刻な問題が横たわっているのか、歴史的にどんなことがあったのか、ほとんど知識をもちません。


 けれども、映画というものは、予備知識などなくとも、そこに何らかの深い事情や、普遍的な人間の葛藤、感情的な確執に引っ張られ、その世界へダイブして、その奥に横たわるものを見たり聞いたり、味わったり、感じたりすることができるものであるべきだと思うのです。

 

 

 

 舞台は、アメリワイオミング州ネイティブアメリカン保留地、厳しい大自然と見渡す限りの雪原です。
 ランバートは、羊を狙うオオカミを撃ち殺した雪の上に、点々と続く血の跡と、少女の遺体を発見します。

 暴力の描写の他に、強く印象に残っているのは、この映画に登場する人間は、FBI所属のジェーンをのぞいては、みな、“あぶれもの”だということです。
 そうして、そのあぶれものたちは、自分たちと違う属性やカテゴリーに属する人間を、快く思っていません。

 

 殺されたナタリーの父親、ネイティブアメリカンのマーティンは、当然、ふいに飛び込んできた「よそもの」の若い女性、FBIのジェーンに心を開こうとしません。
 虐げられた記憶をもつ者は、自分の身を守るために、知らない他人を決して信頼しないのです。

 

 少女(といっても十八歳ですが)ナタリーの死に関係していると思われたのは、ナタリーの実兄の仲間、リトルフェザー兄弟、そして、石油掘削現場の警備員の白人でナタリーの恋人マットであり、彼らはいずれも、よい印象では語られません。

 

 ですが、ひどい連中で、手もつけられない、という噂のリトルフェザー兄弟とナタリーの兄チップは、みじめなヤク中(この街は何もかも奪っていく、と、ナタリーの兄は言っています)なだけですし、そのチップの言う「いけすかないヤツ」マットは、遺体で発見されます。


 そして、マットが所属していた石油掘削現場の警備員の白人たちが、マットを殺し、結果的に、ナタリーを死に追いやったことになるのですが、彼らもまた、社会のあぶれものなわけです。


 文明がもたらす、あらゆる楽しみから隔絶され、“雪と静寂”しかない場所で、マットとその恋人ナタリーの仲を祝福しないまでも、せいぜいひやかして終わるような程度の余裕さえも、彼らは持ち合わせていませんでした。

 

 マットは、彼らから、死ぬまで殴られたのです。


 そこにあるのは、自分より、少しでも美味しい目に遭っている人間を激しく憎み、迫害する攻撃欲求の暴発だけであり、まるで、現実世界と地続きになっている悪夢を見ているような気持ちになりました。

 

 

                               《つづく》