他人の星

déraciné

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2) ※ネタバレあり

乗り越えられることと、乗り越えられないこと

 

 やがて、リーの、その街での過去が明らかになります。

 

 リーと、その妻、ランディの間には、まだ幼い3人の子どもがいたのですが、家が火事になり、3人とも焼け死んでしまったのです。

 

 火事の直前、リーは、たくさんの友人たちを家に招き、遅くまで飲み騒いでいてランディに注意されたのですが、彼はそれほど、もとは人づきあいが好きな、明るくて気さくな人間だったのです。

 

 リーは、火事の原因が、自分の過失にあることを警察で打ち明けるのですが、はっきりした証拠があるわけでもなく、警察官は、「そのくらいの過失は、よくあることで、誰でもやる」と、リーを罪に問うことはありませんでした。

 

 

 街へ戻ったリーは、元妻のランディとも再会を果たしますが、彼女は新しい夫との間に子どももおり、むかし、リーをひどく責めたことを謝り、「今でも愛してる」、「死なないで」、とさえ言います。

 けれども、リーは、逃げるようにその場を去っていきます。

 自分で自分を責め苛み続けている彼にとって、愛と謝罪の言葉は、地獄の責め苦でしかなかったのではないでしょうか。

 

 誰からも受け入れられまい、許されまい、決して幸せな人間になってはいけない、というのが、彼の、自分自身に科した罰なのかもしれません。

 

 

 ところで、リーが、子どもを喪った親ならば、彼の甥、パトリックは、父を喪った子どもです。子どもを喪うことと、親を喪うこと、どちらがより不幸で、辛いのだろうか、と、つい考えてしまいました。

 パトリックは、当初、精神的に不安定になりますが、やがて立ち直り、自分の生活を取り戻していきます。

 つまり彼は、過去、自分が暮らしていた、親のいる世界をなくしましたが、自分の人生の海へこぎ出していく船自体が壊れてしまったわけではないようです。船のオールは、たしかに彼の手にあるのです。

 

 それに対して、リーの場合には、陽気で気さくな性格も、人と親密になることも、過去手にしていたものを、すべて手放してしまったかのようです。

 子どもたちの死とともに、未来も、期待や希望も、すべてが失われ、船は座礁し、オールは、嵐の海のどこかへ、流れて消えていってしまったのでしょうか。

 

 そして、もう一人、リーと同じような状況にいる「大人」がいます。

 それは、リーの兄とすでに離婚していた、パトリックの母親です。

 彼女は、おそらく、アルコールの問題を抱えており、そのせいで離婚に至ったようですが、息子のパトリックとの再会が叶い、とても嬉しいのに、不安と緊張に耐えきれず、その場から逃げ出してしまうのです。

 

 リーにとってもそうですが、自らの過去の罪や、その取り返しのつかなさを思い起こさせるものを目の前にして、平気でいられる人など、いるわけがないのです。

 

 何かに対して「平気でいられない」のは、自らの内奥から聞こえてくる声に、耳をとざしていないからであって、それは、臆病さでも弱さでもなく、心が健全なあかしではないのでしょうか。

 

 そうして、結局、パトリックはパトリック、リーはリー、それぞれに、それぞれの生活を変えずに暮らしていくことになります。

 リーは、パトリックが遊びに来たときのために、自分の家にソファベッドを備えるつもりだと言います。

 

 ラストシーンでは、パトリックの父が遺した船の上で、“乗り越えた”パトリックと、“乗り越えられない”リーが、一緒に釣りをする場面で終わります。 

 

 私は、この映画が、リーを安易に“乗り越えさせない”やわらかさとやさしさ、自由と余裕のある映画で、本当によかったと、そのシーンを見ながらつくづく思いました。

 

 

 苦難や困難を克服し、乗り越えることをよいこととする価値観には、よく出会います。

 けれども、“乗り越えない”“乗り越えられないこと”も同様に、必要で、大切なことなのではないでしょうか。

 

 人間は、何にでも慣れていきます。

 以前は、不快な異物であったものを、自分の中に取り込んで忘れてしまうということが、「慣れる」ということ、つまり、「適応する」ということであり、それを、「克服した」と表現することもあるでしょう。

 ですが、そのように、自分の中で、何かが改変再編成されたとき、その代償として何がどう変わり、何が失われ、何に鈍くなり、どれほど不純物が増えたかは、おそらく、意識にのぼることなく忘れられしまうことでしょう。

 

 ふいに襲ってきた波を越えて、生きていくこと、生き延びていくことが優先的に選択されている以上、乗り越えられるものは乗り越えて、私たちは、生きていこうとするのです。

 だからこそ、私たちは、誰かが何かの苦難を乗り越えたときくと、ほとんど自動的に、それを称賛するのです。

 

 けれども、もし、あることを“乗り越えない”ということが、もはや、自分自身のアイデンティティになっており、それを乗り越えてしまったら、自分ではなくなると強く感じている場合には、“乗り越えない”ことを選択する自由もあるのではないかと思うのです。

 

 元妻ランディの、「死なないで」、という言葉は、リーのそんなひたむきさや一途さ、ある種、信念めいて“乗り越えない”ことへの心配と不安、悲しみと、深いレベルでの共感をも含んでいたのではないのでしょうか。

 

 

 

                                  《おわり》