他人の星

déraciné

『葛城事件』(1) ※ネタバレあり

 

「残酷なおとぎ話」

 

 かなりきつい内容だ、といううわさを、何となく耳にしつつ、でも、いずれきっと観ようと思っていた作品でした。

 

 この映画を観て、この「家族」を見て、どう感じるかは、当然、自分が育ってきた家族、そこから得た家族像が影響することでしょう。

 

 私自身、見終わったとき、率直に、おとぎ話みたいだ、と思ったのです。

 

 家族が紡ぎ出す物語は、いつだって、多少なりとも、形は違えど、残酷なものだと、日頃から感じているからかもしれません。

 

 みな、家族は特別に大切なものだと思い、実際、何よりも大切にしたいと願い、自らのもてる愛情のすべてを注ぎたいと思い、だからこそ、「家族=幸せ」、というイメージを、私たちは、どうしても、拭い去ることができないのです。

 

 実は、「家族=幸せ」、という合理的理由なきイメージは、近年、消費を促進するために刷り込まれたものなのだと、私は思っています。

 家族の誕生日や、記念日、年中行事を祝い、おいしいごちそうを食べ、プレゼントを贈る。一緒に、旅行したり、どこかへ遊びに行ったりする。

 家族への、愛情を表現するために。

 お互いへの、思いの深さを、確認し合うために。

 

 へっ、馬鹿らしい。……などと言えば、オマエはさびしいヤツだなぁ、と言われかねません。

 

 しかし、太宰治は、「家庭の幸福は諸悪の根源」、と書いています。

 鋭いですね。

 家族の本質を表現した言葉として、私は、これ以上のものを知りません。

 

 実際、家族が、社会の側からなすりつけられた役割は、「消費の促進」だけではありません。

 家族構成員が、反社会的行動(あるいは、人付き合いを避けるなどの非社会的行動でさえも)に出た場合、連帯責任を取らされる(このあたりも、映画に表現されています)ため、構成員が反社会的行動に出ることがおのずと抑制され、社会全体の秩序と安寧を守る装置としての役割も担っているのです。

 つまり、家族というのは、いわば「人質」であり、個々人の自由な行動に手枷足枷をはめるものなのですが、現実として、そのような意味合いをもつものだからこそ、気づかれないように周到に、望ましいイメージが刷り込まれているわけです。

 

 

 ところで、葛城家は、家族への思いが強すぎて家族を抑圧する父「清」、夫によって無力な状態におかれた妻・母「伸子」、気弱で内気な長男「保」、引きこもりの弟「稔」の4人からなっています。

 そして、そこにもう一人、連続殺傷事件により死刑囚となった稔と獄中結婚した「星野順子」を加えた5人が、主な登場人物です。

 

 物語は、順子が稔を理解するために、義父となる清に接触し、少しずつ、家族の事情や話を聞き出していく、という形で展開していきます。

 順子は、おそらく、稔を更生させたい、他でもない自分になら、きっとそれができるはず、と思い込んでいる、ある種のメサイア(救世主)・コンプレックスにとらわれており、自分(という特別な人間が)愛情をもって接したなら、稔は必ずまっとうな人間に生まれ変わるに違いない、という考えをもつ類の人間の代表として、登場してきているのだと思います。

 

 この時点で、すでに、「順子」は、「稔」、あるいは、「葛城家」という宿命を背負った人間を理解し損ねているわけですが、彼女自身は、最後まで気づくことはありません。

 

 「愛する」ことを求めるものの「愛」と、「愛される」ことを求めるものの「愛」では、どちらが貪欲で、どちらが救われないほど強くて、濃いのか。

 

 それを、順子は、はじめから見抜くことができておらず、従って、はじめから、その覚悟もなかったといえるでしょう。

 

 

                              《(2)へつづく》