他人の星

déraciné

『葛城事件』(3) ※ネタバレあり

「一家団欒」の幻想

 

 この映画では、家族の食事風景がよく出てきますが、それは、手料理を皆で食べながら、和気藹々と話をする、“一家団欒”の図ではなく、それぞれ一人ずつ、別々の時間に、別々の場所で、コンビニの弁当をつつく、“孤食”です。

 

 例外的には、母・伸子が一人で暮らすアパートに、保と稔が来て、コンビニで買ったナポリタンと、インスタント・ラーメンを食べながら、3人で、「最後の晩餐に何が食べたいか?」という話をする場面があります。(しかし、そこへ、父・清が乗り込んできてしまい、途端に空気が凍りつくのですが)。

 

 そして、おそらく、もっとも印象深いのは、最後の場面、一人取り残された清が、自殺に失敗し、ずるずると、そばをすするシーンでしょう。

 

 「同じ釜の飯を食う」、という言葉がありますが、“食べる”という行為は、「生きる」ことに直接結びついており、だからこそ、無防備になる時間でもあります。

 つまり、この家族は、「生きる」ために何を摂取するかも、時間も、行為そのものも共有してもいないし、お互い無防備な姿をさらけ出し合うこともできていない、というわけです。

 

 「葛城家」に限ったことではなく、実は、どこの家族にも、家族だからこそ知らない・わからない、それぞれの本質や、「他人よりも遠い」部分が必ずあると思います。 

 人間は、その場や状況、対する相手によって、たった一つではない“自分らしさ”を使い分け、適応しつつ生きているのですから、本当は、それが当たり前なのだと思います。

 

 家庭内において、「性」の問題はタブー視されがちですが、それと同じくらいに、家族の「父・夫」「母・妻」、「子ども」などの役割をはなれたところにある、各々の人間としての性質もまた、大きな“タブー”なのかもしれません。

 それが、特に、家族のまとまりにとって邪魔なもの・都合の悪いものであるならば、最も力ある地位に君臨している者(葛城家の場合は「清」)によって、抑圧されてしまうのです。

 一国一城の「王」である清にとって、自分の期待に応えようともしないばかりか、見たくもない、聞きたくもないものを持ち込んでくる者ならば、たとえ血のつながりのある家族であっても(血のつながりのある家族だからこそ)、許し難い“罪人”になるわけです。

 

 

 家族には、愛情による結びつき、情緒的絆、癒し、憩い、安らぎ、というイメージがつきまといますが、いったいそれらは、誰にとっての、誰のためのものだというのでしょうか?

 

 

                             《(4)へ つづく》