他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (2)

“この世の愚かな者、弱き者の宗教”


 「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
                   コリント人への手紙 第1 第1章26節

 


 キリスト教は、紀元前後、ローマ圧政下で、「買弁的な高級聖職者や大土地所有者に反対して人民の苦悩を代表する宗派」として、ユダヤ教の中に成立し、特に、異民族の奴隷とならなければならなかったヘブライ人たち(イスラエル民族)の信仰を広く集めていたのです。(高島進著『社会福祉の歴史』ミネルヴァ書房 1995年)


 つまり、原始キリスト教の神は、「この世の愚かなもの、弱きもの」たちの、「生存の苦痛」のすべてを引き受け、救いを与えてくれる神でした。


 しかし、民衆運動に求心力を与えてしまうことを恐れたローマ帝国は、これを厳しく弾圧したのですが、キリスト教信仰が身分や社会的地位を越えて広まったため、ミラノ勅令により国教化し、帝国の富国強兵に利用することを考えたのです。


 そこから、キリスト教の内実が変化していきます。


 キリスト教では、もともと、金力と権力をもつ者を、何より罪深き者としていました。

 けれども、増える信者たちの「共同食事」(持っている物は何でも皆で分け合う)をまかなうためには、“富める信者”の獲得が必要であり、富者にすり寄るために、貧しい者に金や食べ物を施せば「キリストの善き民」として、救済と繁栄が得られるという価値観を付け足したのです。

 

 原始キリスト教では、「自分ほど賢く何でも知っている者はいない」とおごりたかぶる者や、金力と権力を持つ者に、恥と謙虚さを教えるため、神は、愚かな者や弱い者、何ももたぬ者をこそ、“撰ばれしもの”としていたのですが、そうした特質は消え去り、弱き者のための宗教が、強き者のための宗教に変わり、神の愛と慈悲でさえも、お金で買えるようになったのです。

 

 

 さて、『沈黙』では、殉教した他の信者に決して劣らない信仰心を秘めていながら、踏み絵を踏まなかった家族を殺されても、自分は踏んで生き延びた“キチジロー”という人物がいます。


 彼は、たびたびそうして難を逃れ、一度は、ロドリゴ神父のことさえも裏切るのですが、自分の犯した罪の重さに恐れおののき、神父のもとに、たびたび、告悔(コンヒサン)を求めに来るのです。

 

 キチジローは、言います。「自分のような弱いものには、居場所がない」と。

 

 つまり、踏み絵を踏んで、(ときに、強者におもねって)生きる者は「弱く」、踏み絵を踏まずに殉教する者は「強い」、ということになるのでしょうか。

 

 キチジローは、生きのびるために、本心からではない行動を取らされ、他の者よりも、たくさんの“地獄絵図”を見ています。


 自らが、裏切り者(キリストの弟子、ユダのような)であり、罪深き弱き者であることに打ちのめされつつ生きることと、信念を貫き、それを包み隠さずに、殺されていくことの、どちらがおそろしく、苦しいのでしょう。

 

 私には、考えれば考えるほど、わからなくなっていくのです。

 

 

 

                             《(3)へ つづく》