他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (3)

 

「踏んでも、踏まなくても」―なぜ、キリシタンは弾圧されたのか

 

 ところで、なぜ、キリシタンは弾圧されたのでしょうか。
 弾圧されてもなお、(踏み絵を踏むとも、踏まずとも)、信者たちが守りたかった“信仰”とは、いったい何に対する信仰だったのでしょうか。

 

 私は、キリシタン研究や史実にあかるくない素人ですので、ここからは、文献や資料に頼って、かいつまんで説明してみることにします。

  (主要参考・引用文献:宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』吉川弘文館 2014年)

 

 まず、キリシタン大名の立場からいえば、当時弱小だった西国戦国大名の生き残り策としての“信仰”がありました。


 つまり、キリシタンとのつながりを密にして、南蛮貿易を有利に行い、莫大な経済的利益と軍費を賄う必要があったのです。

 そのため、キリシタン大名たちは、こぞって、領内の百姓たちをキリスト教に改宗させました。

 その際、改宗を拒む仏教徒(家臣団、領民、仏僧など)は領地没収、追放、寺院を徹底的に破壊しました。

 

 また、もとは、キリシタンに好意的だった秀吉が、態度を硬化させ、バテレン(宣教師)追放令を出したのも、宗教的理由による迫害ではなく、天下統一に当たっての領地拡大と軍費調達を目的としたもの、とされています。

 

 さらに、徳川幕府下では、本式的に禁教令が出されましたが、それは、幕府に反抗的な石田三成や、キリスト教布教がさかんな西国諸大名が、当時世界最強だったスペイン・ポルトガルと手をたずさえ、幕府転覆をもくろむことが危惧されたからです。
 

 そして、キリシタン弾圧を一般民衆の間にも徹底させる契機とされるのが、島原の乱ですが、島原、天草の両領内の酷税が直接的原因とされますが、蜂起した領民たちの大部分がキリシタンであったため、幕府はこれを、キリシタンの危険さを一般に知らしめ、幕藩体制を強化することに利用しました。

 


 つまり、社会的には、キリシタンへの改宗も弾圧も、いずれも同じ理由からだった、といえるでしょう。

 それは、「富国強兵」(経済的利益と軍備強化)と、「治安維持」(社会支配層にとって脅威となりうる組織や個人を反社会分子・危険分子として根絶やしにする)です。

 


 領民たちが、それをどこまで理解していたかはわかりません。

 けれども、たとえ理解していたとしても、私には、それはあまり重要な理由だとは思えないのです。

 

 なぜなら、自分たちが、社会を構成する一市民であるとの自覚と責任感をもって、支配階級に対し、集団的に抗する、という意味での市民革命を、日本は、未だに経験していない国だからです。

 

 ですから、社会と自分との直接的なつながりや因果関係を意識し、それを直接動機とした思想や思考、感覚や感情をもつということは、現実的に、考えにくいのではないでしょうか。

 

 

 ではなぜ、農民たちは、そこまでして、“信仰”を守ろうとしたのでしょうか。


 結論からいえば、それは、キリスト教の教義を聖書などによってきちんと理解した上での入信、信仰というものではありませんでした。

 

 いわば、「日本の伝統的な諸神仏信仰に加えて、さらに強く現世利益的願い(家内安全、無病息災、商売繁盛、厄除開運、学業成就、子孫繁栄、良縁祈願など)を叶えてくれそうな、南蛮渡来の力ある神をプラスしたものというのが実態」なのです。

 

 それを、力強く支えるのが、「先祖信仰」です。


 ご先祖さまが、命がけで伝えてきた大切なものを自分たちも守り抜いていくことが、最大の供養となり、決して自分の代で絶えることがあってはならない、という強い先祖信仰心です。

 つまり、“信者たち”にとって大切なのは、キリスト教の信仰そのものを伝えていくこと自体が目的ではない、という点が重要です。


 現に、カクレキリシタン潜伏キリシタン)の間で行われているキリスト教の行事は、身近にある神道の民俗信仰や習俗を取り入れたものとなっているそうです。

 

 年間を通して、きっちりと、決まった行事を執り行うことで、先祖や家族、地域共同体とのつながりを再認識し、強める役割と同時に、共同体に属する人間同士の相互監視、同調圧力の役割をも果たしてきたのでしょう。

 先祖代々、地域共同体の中で守りぬき、脈々と伝えられてきたものを「棄教」すれば、共同体との精神的な結びつきが断ち切られ、仲間はずれにされることへの恐れは、かなりの割合で、信者であり続けるための原動力となり得たのではないでしょうか。


 他にも、棄教することによる“タタリ”への強い恐れ、あるいは、わざわざ遠い外国から出向いてきて、自分たちのために必死で働く宣教師に並々ならぬ恩義を感じていたこともあったのだろう、ということです。

 

 

 つまり、信徒が「踏む」ことをためらい、拒んだのは、踏絵が、キリストの顔や聖母子像だったからではないのです。

 「踏む」ことによって、「ご先祖さま」の顔を踏みつけることになり、共同体の体面を汚すことになり、それによってタタリを受け、仲間はずれにされ、恩知らずの“ヒトデナシ”よばわりされることをおそれていた、と解釈できるのではないでしょうか。

 

 

                            《(4)へ つづく》