宣教師たちの見た日本―“天国に一番近い島国”
ところで、宣教師=司祭(パードレ)たちにとっての信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。
宣教師たちが、キリスト教弾圧下の日本にやってきたのは、キリスト教布教の灯を消さないためでもあったのですが、それだけでなく、「殉教したくてそのような行為に及んだ確信犯」的な宣教師も存在していたそうです。(宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像』吉川弘文館)
キリスト教信仰は、もともと、日本で理解されたような現世的利益ではなく、来世での永遠の生命を約束するものであり、殉教者には、100%、天国への門が約束されていました。ですから、わざわざ、赴けばほぼ確実に殉教することができる日本は、むしろ、彼ら宣教師にとっては、「天国に一番近い島国」だったのです。
『沈黙』に話を戻します。
登場する司祭(パードレ)たちは、いずれも、理解しがたい目的をもった聖人としてではなく、死と苦痛をおそれる一人の人間として描かれています。
彼らにとって、キリストとは、どのような存在だったのでしょうか。
たとえば、ロドリゴ神父は、たびたび、心の中で、「うるんだ、やさしい目をした」キリストの顔を思い描いています。
彼は、むかしから、孤独なときには、いつも、キリストの顔を想像する癖があったのです。
あるいは、キチジローにだまされて、役人に捕まる前、彼は、のどの渇きを潤すために川の水を飲むのですが、そのとき、映画では、川面に映った自分の顔が、キリストの顔と重なる場面があります。
そして、役人に捕まってしまうと、今度は、こんなふうに感じるのです。
「基督がユダに売られたように、自分もキチジローに売られ、基督と同じように自分も今、地上の権力者から裁かれようとしている。あの人と自分とが相似た運命を分ちあっているという感覚は、うずくような悦びで司祭の胸をしめつける」
「更に十字架上のあの人と結びあっているという悦びが突然、司祭の胸を烈しく疼かせた。………苦しんでいる基督、耐えている基督。その顔に自分の顔はまさに近づいていくことを彼は心から祈った」
禁ずれば禁ずるほどに
ギリシャ神話には、泉に映る自分の姿に恋をしたナルキッソスという青年の話があります。(ご存じのように、「ナルシシズム」の由来ですね)。
ロドリゴ神父は、迫害に苦しむキリストと自分を同一化することで、ある種の「自己陶酔」に陥っており、その表現からは、かなり性愛的なものを感じます。
それを示唆する表現は、他にもあります。
行く先の知れなかった師、フェレイラに引き合わせられたとき、彼はもとは、顎に手入れの行き届いた「うつくしい髭」をたくわえており、それが「彼の顔に一種独特のやさしさのこもった威厳を感じさせていた」のですが、今では剃ってしまい、鼻の下や顎が露わになっているのです。
「司祭はフェレイラのつるんとなった顔の部分に眼がどうしてもいくのを感じた。そこはひどく淫猥だった」
多くの絵に残されているキリストの顔には、フェレイラと同じ位置に、髭があります。
やさしさと威厳を印象づけていた髭が剃られ、隠されていたものが露わになったことが「淫猥」さを感じさせたのでしょうか。
もし、ロドリゴが、過去、師と仰いでいたフェレイラの髭面に、キリストの顔を投影して見ていたのならば、たとえば髭が剃られたキリストの「つるんとなった顔」も、同じように感じるかもしれません。
余談ですが、私は、まだ小学生のとき、ミサの「聖体拝領」で、「キリストのからだ」と言って、平たくて丸い無発酵パン(「ホスチア」というそうですね)を、神父が手ずから信者たちの口に入れるのを見て、なぜか、子ども心に、見てはいけないものを見たような気がしたのです。
それは、信者たちが神やキリストと交わり、一体となる神聖な儀式なのですが、無防備に開けられた口の粘膜の中に、無抵抗に何かを受け入れる、という行為が、どことなくエロティックに感じられたせいかもしれません。
キリスト教は、性愛について、とくに厳しく戒めていますが、むしろ、そうした“強い禁止”が、キリスト教というものや宗教というもの、あるいは、それらをとおして見た人間そのものが、いったいどういうものかを、かえって強い印象で浮かびあがらせているのではないでしょうか。
フロイトも言っていたことですが、何かを執拗に、厳しく禁じたり、戒めたりするという行為は、それ自体をもって、むしろ、それが天然自然の姿であり、本体であることをかえって露呈してしまうのです。
なぜなら、もとからそうしたことに強く引かれる性質をもっていないのならば、わざわざ取り立てて厳しく禁じる必要などないからです。
たとえば、「殺してはならない」という“禁止”もそうですが、人間に対して暴力や殺人を、社会規範や法律などで厳しく禁じているのは、人間というものは、放っておけば、そうした行為に及びかねない、本来そうした性質をもつものである、ということを、われわれ人間の誰しもが、無意識的によく知っているからなのではないでしょうか。
《(6)へ つづく》