他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (6)

「美しいものを愛する」ということ

 

 ロドリゴ神父にとって、キリストは、「自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの」であり、最も聖らかと信じたもの」であり、「最も人間の理想と夢にみたされたもの」でした。

 

 太宰治は、『駆込み訴え』で、裏切り者の弟子ユダの、キリストへの、愛憎入り混じる感情を描いていますが、やはり、同じような表現があります。

 

 「けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している」
 「あの人を、一ばん愛しているのは私だ」
 「あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった」

 


 「美しい」、という表現が随所に使われていますが、それは、『沈黙』における、ロドリゴのキリストへの想いもまた同様なのです。

 この世で一番美しい、と思ってきた対象を、これ以上、どうやって愛すればよいのか、この気持ちをどうすればよいのか、むしろ、どんな恋愛よりも激しいものを感じます。

 

 その一方で、ロドリゴは、神やキリストが探し求め、撰ぶのは、むしろ「美しくないもの」であることも、よくわかっているのです。

 

 「主は襤褸(ぼろ)のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。……魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰にだってできることだった。そんなもものは愛ではなかった。色あせて、襤褸(ぼろ)のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった」

 

 この言葉は、「垢と汗くさい臭気」、「臭い息」、「黄色い歯」、「狡そうな眼」の、「悪や悪人ほどの美しさももたない」「襤褸のようにうす汚いだけの」キチジローへ向けられた思いです。

 

 つまり、「美しい」キリストへの対比として、「醜い」キチジローがおり、ロドリゴは、美しいものではなくて、醜いものに心をかけることこそ「愛」だとどんなに頭でわかっていても(あるいは、自分が最も愛するキリストの想いがそうであったとしても)、「美しいもの」に、心惹かれずにはいられないという人間的な衝動を免れることはできないのです。

 

 太宰治の『駆込み訴え』の、この言葉が、そうした思いをもっともよく表現しているように思います。

 

 「この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない」

 

 「純粋の愛の貪欲」。どうしてこんな、鋭い矢を的(まと)めがけて真っ直ぐ飛ばすような表現ができるのだろう、と思うような言葉です。

 

 ただ“美しい”と思うものを、ただひたすらに崇めるという、底なし沼のような「純愛」は、それだけで、どんな刑罰にも、地獄の業火にも、勝るとも劣らない、永遠の苦しみなのかもしれません。

 

 ロドリゴ神父にとって、純粋に、ひたむきに、キリストの、唯一絶対の美しさを崇め続けることができるのなら、おそらく、「どんな刑罰も、地獄の業火さえも」おそれることはなかったのではないでしょうか。

 

 

 たくさんの信者たちが、残酷極まりない刑に処されて死んでいき、自らも、じわじわと精神的に追い詰められ、最後に、フェレイラに背中を押され、ロドリゴ神父は、ついに、この世で最も美しいと信じ愛してきたキリストの顔を踏むことになります。


 踏んだとき、果たして、彼は、何を感じたのでしょうか。

 

 「その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった」

 

 なぜでしょう。

 あれほど愛した存在を、自らの汚れた足で踏んだとき、ロドリゴは、嘆き悲しむどころか、「烈しい悦びと感情」を感じるのです。

 

 しかし、それもまた、ある種の、“性愛”の形ではないのだろうか、と私は思いました。

 

 唐突なようですが(実はそんなに唐突でもないのですが)、それが、“フェティシズム”の表現であるように感じられたからです。

 

 

                             《(7)へ つづく》