他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』―映画と、原作の両方から (8)

“神”は存在するのか?

 

 さて、幼年から思春期までの成長期を、何となく、キリスト教信仰の空気のなかですごしてきた私は、大学へ進んだ頃までは、神の存在を、“何となく”信じていたように思います。

 

 たとえば、友人との間で、自殺についての話題が出たとき、私は、偉そうにも、「自殺はいけない」、と言ったのです。

 「それはなぜ?」と、友人はきいてきました。

 私は、「命は、自分だけのものではないから」、と答えました。

 「じゃあ、誰のもの?」ときく友人に、私は、「神さまのもの」だと答えたのです。

 

 ずいぶんと、もののわかったような口の利き方をしたものだな、と思います。

 もしいま、若い頃の私のような人と出会ったなら、おそらく私は、友だちになれなかった気がします。

 

 

 ところが、いつの頃からでしょうか。

 私は、神の存在を、疑うようになりました。

  

 

 『沈黙』において、ロドリゴ神父は、多くの信者たちが信仰を守りぬき、惨殺されていくのに、それでも何もしない神に、疑いを抱くようになっていきます。

 

 「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。」

                            遠藤周作『沈黙』

                        

 

 そうして、ロドリゴ神父は、すぐそばで穴吊りにされて苦しんでいる信者たちを救うために、「一番辛い大きな愛の行為」をするのだと、フェレイラに説得され、「この世で最も美しいもの」と信じてきたキリストの顔を踏むのです。

 

 そのとき、彼の中のキリストは、ロドリゴへ向かって、こう言います。

 

 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」

 

 

 つまり、神は、何らかの形で都合よく事態を収拾したり、奇跡を起こして見せたりこそしないけれども、いつも苦しむ者の傍らにいて、ともに苦しんでいる、ということになるのでしょう。

 

 私が中学生か、高校生の頃、宗教の時間に、似たような話を聞いたことがあります。


 悩み苦しみつつ、生きてきた道をふり返れば、自分一人だけの足跡しかなく、それを、なぜ、自分の傍をともに歩んでいてはくれなかったのかと、神に問うと、神は、こう応えたというのです。


 あなたが苦しんでいたとき、私は、あなたを背負って歩いていたのだ、と。

 

 実に、感動的な話です。


 けれども、私は、“それはずるい”、と思いました。


 神の沈黙の理由を、その信仰ゆえに、どうしても正当化したい心の動きによって発明されたつくり話にすぎないではないか、と思ったのです。
 この手の発明や想像、あるいは“妄想”は、確証を得る手段がないために、本当だと証明することもできなければ、本当でないと反証することもできないからです。

 

 考えてみれば、すべてのあらゆる宗教心、神の存在は、みな、そうなのです。


 もちろん、すべてを疑い、疑い尽くしたせいで、かえって、真実を殺してしまうことも、当然あるでしょう。


 けれども、どんなに信じても、どんなに疑っても、答えや真実にたどりつけないのが、こうした類の問いなのだと思います。

 

 神の存在しかり、死後の世界しかり、魂の世界しかり、あるいは、私たちが生きているということさえ、しかりです。

 

 何も確かなものがないのに、こんな曖昧で、あまりにも不安で不安定な浮遊状態で、よくも生きていられるものだと、私は時々、ひどく不思議に思うことがあります。

 

 思いどおりにならない感情が、乱暴に、自分を引きずり回していく。

 その苦しさとおそろしさは、真実であり、死をおそろしいと思う気持ちもまた、同様です。

 

 たとえば、誰かが、その苦しみやおそろしさこそ、ほかでもない、キミが生きているあかしだよ、と言われても、私は、そういう類の言葉には、軽蔑と嫌悪感しか抱きません。

 

 けれども、人智を越えた“崇高な”存在がそう言っているのだとして、それを信じることができるのならば、(あるいは、信じることを心から求めるのならば)、その人の中では、「神は存在する」ことになるのであり、宗教的な信仰もまた、その人の人生において、大きな役割を果たすことになるのではないのでしょうか。

 

                             《(9)へ つづく》