「死ぬか、狂うか、宗教か」
ところで、夏目漱石は、後期三部作の一つである『行人』の主人公、長野一郎に、こんな言葉を言わせています。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
『行人』 塵労 三十九
私は、夏目漱石の作品の中では、この『行人』がもっとも好きです。
その理由として大きいのは、時折この胸に感じる、どう説明したらよいのかわからない痛み苦しみを、「長野一郎」ならきっと知っている、と感じるからだと思います。
おそらく、一郎がなぜ、家族のことも、妻のことも、誰のことも疑い、何も信じられずにいつまでもしつこく苦しんでいるのか、(少なくとも作中においては)、友人である「Hさん」をのぞいて、さっぱり理解できないのです。
そう意固地になって疑うのをやめて、「信じて」楽になればいいのにと、周囲はすすめますが、一郎には、その「信じる」ということができません。
なぜなら彼は、「神でも仏でも何でも自分以外に権威のあるものを建立するのが嫌い」だからなのです。
つまり、一郎にとって、「信じる」とは、せっかく見える目に目隠しをされ、聞こえる耳をふさがれることと同じだからなのでしょう。
つまり彼は、自分自身に対して、ひどく誠実なのです。
自分の五感を駆使し、よく調べた上で、自分でとことん「考え、これは本当だと心底納得できたもの以外、彼には、受け容れることはできないのです。
ところが、よく調べれば調べるほど、そんなものなどこの世のどこにもないことしかはっきりしないのですから、彼の不安や苦痛は、おさまるどころか、ひどくなる一方なのです。
一郎の知己である「Hさん」は、こう言います。
「私は能く知っていました。考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍り叫んでいる事を知っていました。」
苦しみから救われたいあまり、神や宗教に頼ることを、誰が責められるでしょうか。
一郎自身もまた、できることなら、終わりのないこの苦しみから、救われたいと願っていたはずです。
けれども、彼は、自分が、死にきれないことも、宗教に入れないことも自分でわかっていました。
そうして、現在の自分は、正気なのだろうか、もう既にどうにかなってしまっているのではないかとおそれるのです。
私は、一郎のそうした心性とは、まったく相容れないであろう、ある人の話を聞いたことがあります。
それは、あるクリスチャンの話でした。
その人は、母親を亡くしたばかりにもかかわらず、涙一つ落とさず、「悲しくない」と言ったそうなのです。
「母は、神のご意志で、神のそばへ行ったのだから、悲しくありません。また会えますから」と言ったらしいのです。
私は、少なからず、ショックを受けました。
神だの、宗教だのというものは、人間の、自然な感情までも、そんなに強烈にゆがめ、押しとどめてしまう力をもっているのか、と驚いてしまったのです。
だからといって、それを悪いとは言えません。
日常を生きることは、ただでさえ、苦しみや煩わしさに満ちています。
ですから、「信じる」ことで、大切な人を喪った苦しみが軽くなるのなら、それはそれでいいのだと思います。
私自身もまた、自分の未来がどうであるかはわかりません。
苦しみから解放されたくて、宗教に入ることがないとは、言い切れません。
けれども、現在の時点では、そのような話をきくと、気持ちのどこかに、はっきりしない「疑い」のようなものがわいてくるのを、無視することができないのです。
《(10)へ つづく》