他人の星

déraciné

『沈黙―サイレンス―』映画と、原作の両方から (10)

 

 

 さて、本題からだいぶ逸れてしまいましたが、話を『沈黙』へ戻します。

 

 苦難に満ちた旅路をたどり、布教活動をし、村の人たちに救いと赦しを与える役目を果たしていたロドリゴ神父は、もし神が存在しないのならば、自分の半生は滑稽であるし、殉教した信徒の人生もまた滑稽であることになると、捕らえられた牢の中で思います。

  たとえ神父といえども、もし、自分の信仰とそれによる行いが「無意味」であり「無目的」である、としたなら、「滑稽」でしかない、と思うほどに、彼は「あまりに人間的」であるのです。

 

 一方で、何度も同志を“裏切り”、自分だけ逃げ出し、殉教しきれなかったキチジローは、弱い自分がなぜこんな迫害の時代に生まれたかをのろいます。

 

 ですが、ロドリゴや、キチジローの悩み苦しみは、彼らだけの、特別なものなのでしょうか。 

 

 

 人間の社会は、時間や労力を節約できる方向へと、“便利”で“効率的”だと感じる方へと、おのずと発展していきます。

 

 それはたとえば、交通機関の発達や、どうしても生活を営むために行わなくてはならない家事や仕事などの効率化に表れているといえるでしょう。

 

 しかも、そうした発展なり変化は、熟慮の末に起こされるのではなく、その影響について考慮することもなく、ただただ、「できるのだから、やる方が良いに決まっている」、とでもいわんばかりにすすめられていきます。

 

 

 では、人類は、その発達を、どこで止めるのでしょうか?

 まだまだ進めるかもしれないレールを、先へ先へと敷き詰めていくことを、どこで止めることができるのでしょうか?

 

 おそらく、人間の特性上、それは不可能なのです。

 

 

 夏目漱石は、小説の中の人物にこんなふうに語らせています。

 

「世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」

                      夏目漱石三四郎

 

  「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。………どこまで行っても休ませてくれない。どこまでつれて行かれるか分からない。実におそろしい。」

 

                      夏目漱石『行人』

 

 

 いざ、その発展なり進化がおとずれたとき、人間社会や人間個々人に、いくら深刻な影響がもたらされようと、“そんなことは知ったこっちゃない”、なのです。

 

 人間は、中途半端に将来の不安こそ感じても、正確に未来を予知できる能力は持ち合わせていません。

 

 

 実は、ものごとがどんどん効率化され、ムダが省かれるようになっていけばいくほど、人間にとっては、自分のしていることや、生きていることの意味への疑いとおそれ―たとえばロドリゴ神父のような―と、あるいは、時代や社会に適応できない生きづらさ―キチジローのような―が、生じてくるのです。

 

 かくのごとくして、発展してきた人間社会というものは、必然的に「張り子の虎」であって、見かけだけはいかにも近代的で強固に見えて、その実、ひどく脆弱な土台しかもっていないことになります。

 

 その中で生きていく私たちの「生存の苦痛」は、生活や交通がいくら便利になったところでマシになるどころか、より酷くなる一方です。

 

 それもそのはずです。

 「時間のムダ」、「労力のムダ」、と言って、削っていったものの中に、時間をかけて、汗水垂らして何かをやる、という、生々しく、とてもわかりやすい充実感があったのですから。

 そして、それが、人間ゆえの、「何もせず、何の役にも立たずにただ生きている」ことへの罪悪感を消すことにも、何役も買っていたのです。

 

 ゴミだと思って棄てちゃったら、はたして、その中に、とても小さいけれど、宝石やら金が含まれていた、という感じでしょうか。

 

 

 かくして、われわれの足もとはおぼつかず、ぐらぐらで、不安は強まり、このまま生きていくのだったら、「死ぬか、狂うか、宗教か」、になるわけです。(死んだら、根こそぎ生はなくなりますが)。

 

 言ってみれば、私たちは、ロドリゴ神父やキチジローが感じていた「生存の不安」を、「自分一人に集めて、そのまた不安を一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」(『行人』長野一郎の言葉)とさえいってもよいのではないかと思います。

 

 

 あるいは―。

 

 

 甚だしい「生存の苦痛」に耐え、死ぬほどおそろしい「死」を回避しようとするために、われわれはみな、死にものぐるいになって、何かに「クルッテ」いようとするのかもしれません。

 

 「クルッテ」いることを、今さら、悪だとか、病気だとか、闇だとか言っても、何もはじまりません。

 

 それだけ、現代の「生存の苦痛」は辛く、「死」は、ますますの恐怖感をもって、私たちに迫ってきているということ、それが、私たちの現実だということを、如実に示しているのだと、私は思うのです。

 

 

                                 《おわり》