他人の星

déraciné

お金の話。

 

 「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ。」

                           夏目漱石『道草』

 

 

  お金の話………。

 お金の話なんて、やめようよ。

 じゃ、何の話?

 うーん、お金の話。

 

 ようするに、世の中、金、金、金の話ばかりしている、ということも忘れるくらいに、お金の話しか、ないのでございます。

 

 それ、いくら?

 で、どのくらい稼いでるの?

 儲かってる?

 

 家庭内経済格差もまた、深刻な問題となり得るのでございます。

 

 先日、わたくしの年収がどのくらいか、具体的に知りたがっていた親きょうだいに、わたくしの低所得を暴露しましたら、文字どおり、“”腫れ物に触るよう”になってしまったのでございます。

 

 ああ、家族って、優しいなあ。(もちろん、皮肉でございます。)

 

 隠していたわけではございません。否、隠したかったのかもしれません。

 わたくしは、そうは見えないようですが、意外と(かなりの)策略家でございます。

 ですから、どうしたら、いちばん損にならないか、考えをめぐらせていたのですが、そういうあざとい自己防衛は、だいたい、痛い目に遭うことになるのでございます。

 

 

 わたくしだって、お金が欲しゅうございます。

 

 お金は好きか、嫌いかときかれれば、当然、「大好き」だと言わざるを得ないのでございます。

 とはいえ、誰とは分からぬ人の手垢にさんざんまみれてきた、あの汚くなった銅やら、亜鉛やら、ニッケル、特殊和紙、そのものが好きなわけではございません。

 

 「お金をいじったら、手を洗いなさい。」

 

 幼い頃から、お金をさわるたびに、そう言われ続けて参りましたので、ああ、お金って、かなり汚いものなのだなあ、と、子ども心に思っておりました。

 

 汚いもの。

 汚いもの、といえば、たとえば排泄物などが、代表格でございましょうか。

 他の生きもの、たとえば犬などにとっては、排泄物は、決して「汚いもの」ではないのですが、高度に進化した(進化してしまった)人間に至っては、排泄物を汚いものとして、見えない場所で処分し、最近では、その残り香まできれいに消しませんと、「文化的生きもの」、とは認められないようにまでなって参ったようでございます。

 

 ちなみに、わたくしは、小学生の頃、学校のトイレで「大」の方をして、その“残り香”を消し損ね、次に入った子に、他の子もいる前で、大きな声で、「好かねぇ」(※注 女の子です)、と言われたことがございます。

 

 話は逸れてしまいましたが、つまり、わたくしがお金を好きだと申しますのは、お金が、わたくしが欲しいと思う大抵のものと、交換できるからなのでございます。

 

 言わずと知れたことでございますが、お金そのものは、人間が生きることを、何ら、助けてくれるものではございません。

 

 お金は、飢えや渇きを直接満たしてくれるものではございませんし、寒さや暑さから身を守ってくれるものでもございません。

 

 それをたくさん持っていれば持っているほど、欲しいものが何でもたくさん手に入る。

 だからこそ、価値があるのでございます。

 

 

 そういうお金だからこそ、みんな欲しがる。

 欲しいものは、みな同じ。

 あればあるほどいいのだから、際限なく欲しくなる。

 だから、問題になる、争いにもなる………。 

 

 

 小学校のとき、宗教の時間に、先生が、こうおっしゃいました。

 

 お金を寄付するのなら、「痛みを感じるくらい」の額を寄付しなさい、と。

 要するに、自分にとって、手痛い損失と感じるくらいの額を、寄付しなさい、ということなのだろうと思います。

 

 けれども、わたくしには、どだい無理なお話でございました。

 何せ、五十円やら、百円やら、親から少しでもお小遣いをもらうと、学校の売店で、必要でもないのに、消しゴムやら、鉛筆やらを買って、すぐに使ってしまうのでございますから。(売店の職員さんから、「お金は大事に使いなさい」、と叱られたこともございました。)

 

 

 さて、ことさらに、ぎらぎらと、お金に執着するようすを見せる方を、「あいつは金に汚いやつだ」、と、よく申すようでございます。

 ですが、その文句は、あからさまな執着を見せる方にしか、使われないのでございます。

 

 たとえば、外見はあくまでも上品で、もの言いはやわらかく、おだやかで、見た目には、お金に貪欲そうに見えない、そういう方に対しては、いかがでございましょうか。

 そのような方が、実は、とても効率よくお金を誰かから搾取していたとしても、おそらく、「あいつは金に汚いやつだ」、と批難されることはございません。

 

 

 自己弁護、になること、承知の上で、申し上げます。

 

 まことに、わたくしは、薄汚い人間でございます。

 (「汚い」よりも、「薄汚い」の方がより汚い印象があるのは、どうしてでございましょう?)

 

 

 かくして、「薄汚い」わたくしは、お買い物にでかけますと、「おつとめ品」「お値下げ品」に「目を光らせ」もせずに、目を光らせるのでございます。

 ネットショッピングでは、同じような商品ならば、「いちばん安い」のはどれか、と、「目を血走らせ」もせずに、目を血走らせるのでございます。

 

 いったいどれが「お得」で「損」をしないのか、という考え方や価値観は、いまや、わたくしの生活全体を支配し、占拠してしまっているようなのでございます。

 

  そうして、また。

 

 「美」を愛さない人間はいない。

 「美」を探求する人間は、称賛の的となる。

 「お金」を儲ける人は、称賛の的になる。

 けれども、「お金は汚い」、という。

 物質的に汚いだけでなく、イメージ的に、それを「美」と感じる人、「醜」と感じる人、どちらが多いのか。

 お金を儲けられない貧乏人を、「薄汚いやつ」と、ののしる人さえいる。

 お金を儲けることは「美しい」のか、お金を儲けられないと「汚い」のか。

 

 

 そこらへんの矛盾を、解決できないのは致し方ございませんが、(人間に矛盾はつきものでございますから)、もともとキャパシティがあまりないわたくしの頭は、そのうちショートするか、あるいは………?

 

 

 それとも、案外、平気の平左、貪欲さ丸出しで、生きていくのかもしれません。