他人の星

déraciné

「不謹慎、上等」(1)

 

 

 たった数分、ないし、数時間のことなのに、人生を、根こそぎなぎ倒してしまう。

 大切な人やものを、一瞬にして、すべて、奪い去る。

 

 けれども、その同じ時間に、他の人は、くだらない冗談で笑っていたり、おいしいも

のを食べたり、快楽や享楽に溺れていたりする………。

 

 それが、高い空から見おろしてみたときの、あらゆる意味での災害や災難(あるいは死、悲しみや苦しみ)、人々の生きる営みとの関係、なのだろうと思います。

 

 

 何か、大きな災難をもたらす事態が迫っている、ときけば、人は、予定を変え、行動を変えます。

 それが、今回の台風19号のように、未だかつて経験したことのない災害に見舞われる可能性が高い、ときけば、なおさらです。

 

 たとえば私は、いつもは、土曜の午後に予定している食料品の買い物を、午前中に早めよう、と思いました。

 

 そして、いつも利用している、通常、ほとんど待たずにレジをすませることのできる、規模の比較的大きなスーパーへ行ったのですが、昨日見たのは、入り口付近からずっと、店の奥まで続く、長蛇の列、でした。

 

 ああ、考えることは、みな、同じだな、と思いました。

 私でさえ、考えることなのだから、そりゃそうだ、とも。

 

 かごを持って、店内をまわってみると、カップラーメンなどのインスタント食品はほとんど無くなっており、肉やパンは、品薄状態でした。

 

 カート上下に置いた二つのかご一杯に、景気よく、肉や野菜をつめこんだ人。

 (今夜は、焼き肉パーティーかな)

 お菓子をやたらたくさん買い込む人。

 (ピクニックみたいで、楽しそうだね)

 お刺身盛り合わせを山ほどかごに入れた人。

 (今夜は、手巻き寿司かな)

 「今夜は、鍋が食べたいなあ」、と言うお父さんとその家族連れ。

 (いいね、今晩は冷えるから、ちょうどいいかも)

 

 何だか、お祭りのようでした。

 つまり、“ハレ(非日常)とケ(日常)”でいえば、「ハレ」の方です。

 

 大変な災害が迫っているかもしれないのに、大人も子どもも、男性も女性も、老若男女、みな、何だか楽しそうなのです。

 少なくとも、その中に、深刻な顔をしている人をみつけることは、できませんでした。

 

 だからといって、それらを批判するつもりは、まったくありません。

 

 私自身、台風に備えて、いつもと違って、少し早めに買い物に行ったりする、その非日常性を、楽しんでいる自分がいるのを、わかっていたからです。

 

 それどころか、なんだかどきどきわくわくするようなこの非常事態が、たった数時間で終わってしまうことを、少し淋しくさえ感じていたのです。

 

 そして、一夜明けて、この台風は、予想どおり、あるいはそれ以上に、各地に深刻な被害をもたらし、人々の家や生活を奪い、人命を奪って、去っていきました。

 


 こんなときに、ひどくはしゃいだり、お祭り騒ぎをしたりすれば、必ずといっていいほど言われる非難の言葉があります。

 

 それが、「不謹慎」、という言葉です。

 この言葉は、災害などで「目に見えて」たくさんの人が亡くなったり、生活の基盤を奪われたりした場合によく言われるようです。

 

 けれども、人が死なない日は、ありません。

 日々刻々、死んでいきます。

 

 あるいは、自然災害ほど、どうにもならないものではなくて、人の力で、社会的努力次第で、少しは何とかなるはずの、社会的災害(不安定雇用、失業、生活苦などなど)や社会的排除が日々起きていても、そうしたことには、人間、わりあいと、鈍感でいられるのです。

 

 日頃発生しているそうした事態には、目もくれずにいても、“不謹慎”と批難されることはまずありません。

 

 それとこれとは、まるっきり関係がない、という人もいるのでしょうけれども、私には、どうしてもそう思えないのだから、仕方がありません。

 

 むしろ、自然災害(=ハレ=非日常)のときの大騒ぎと、社会的災害(=ケ=日常)の無視の差が、顕著であればあるほど、私には、思い当たるものがあるような気がするのです。

 

 

 それは、フロイトによる自我防衛機制の「反動形成」、「打ち消し」、という、無意識的な心の働きです。

 

 

 

                           《(2)へ つづく》