他人の星

déraciné

『 LOVELESS ラブレス』(4)

 ……さて、今日は、クリスマスイブですね。

 

 別に、そういう決まりがあるわけでもないのに、クリスマスともなれば、プレゼントを買って、ケーキやごちそうを食べないと気がすまないのは、いったいなぜなのでしょう?

 

 クリスマスのケーキを、フォークでつつきながら、よく、そんなふうに思うのです。

 

 私は、クリスマスを、あまり楽しいと思ったことはありません。

 街の百貨店前に飾られている、大きくて豪華なクリスマスツリーや、ショーウィンドウのきらびやかな飾りつけを見ると、なぜか、悲しくなるのです。

 友だちや恋人、家族とはしゃいで歩いている人たちを見ても、(その人たちにも、人知れない悩み苦しみがあるのでしょうに)、私はその分、どんどん悲しくなっていくのです。

 

 どこかで、自分の気に染まないことをしている、と感じるからでしょうか。

 

 

 結論から言えば、私が、クリスマスになれば、プレゼントを買ったり、ケーキやごちそうを食べたりするのは、私が産み落とされた世界が、はじめから、そういうところだったからなのです。

 

 こうした“刷り込み”は、本人の意思や好みなどとは無関係に、自動的、なおかつ強力に、その人を動かします。(実は、意思や好み、などというものも、どこかで知らないうちに刷り込まれたものではあるのですが)。

 なぜなら、ヒトは、生まれ落ちた社会がどんな社会であっても、そこへ適応できなければ、生きていくことが難しくなるからです。

 つまり、自分よりも先にその社会で生きている人たちが理解している方法で世界を理解し、その人たちの中に入り込み、関係をつくっていくことなしには、ヒトは、生きていくことができないのです。

 

 よく知られているように、ヒトがつくる社会でも、婚姻関係や家族関係のあり方は様々で、実は、私たちが常識だと思っている一夫一婦制も、その中の一つにすぎません。

 動物たちの社会では、交尾の相手を頻繁に変えるのは、生物の繁殖行動として、種の存続を考えれば、むしろ妥当な行動だと書きました。

 

 その、動物たちにとっての「ふつう」が、なぜ、私たちや、ボリスとジェーニャの住む一夫一婦制の社会では、あまり好ましく思われないばかりか、様々な難しい問題を引き起こしてしまうのでしょうか。

 

 一つには、人は、ものを所有するからです。

 ヒトの場合、それが自分のものだとわかるのは1歳半頃で、2~3歳にもなれば、「それは自分のものだ」と、所有権を主張し始めます。

 たとえば、ゴリラやチンパンジーは、道具を使って食べ物を得たりしますが、その道具を「自分のもの」だと主張して、持ち歩いたりはしません。

 ヒトの場合、「別れる」「離婚する」などという事態になれば、それぞれ所有者がはっきりしているものについては別として、家家屋や特にお金など、一緒に仲睦まじく暮らしている間は問題にもならない共有財産が、とたんに「大問題」になり、それをめぐって大騒動になったりします。

 

 もう一つは、「子ども」です。

 多くの動物では、子どもの体や能力が一人前になれば、自然に「巣立ち」となり、同時に、親役割が消滅しますが、ヒトの場合は、この限りではありません。

 人間の子どもは、どんな動物よりも長い期間、親の手厚い養育を必要とします。時間やお金などコストをかけて、親は、子育てに縛られることになります。

 そうして、子どもが(その子どもによってもまちまちな)「巣立ち」を無事迎えるまで、そのすべての責任が親に課せられるわけです。

 もし親が離婚するとなれば、その子どもの養育権をめぐって、あるいは養育費をめぐって、ボリスやジェーニャのように、「いる・いらない」でやはり大騒動になります。

 

 さらにもう一つには、「世間の目」、世間体があります。

 これは、同じ一夫一婦制をとる社会でも、圧力が強くかかる国、比較的ゆるい国、様々ですが、いずれにせよ、「親の身勝手」、「子どもがかわいそう」、など、あまり好ましく思われません。「人間としてどうよ?」とまで言われたりします。 

 

 加えて、「個人の勝手都合でそうなったんでしょうが」、としか見られないような行動やその結果の背景には、社会という、大きな仕組みの力が働いています。

 「仕組み」、つまり、あるシステムは、一度できあがってしまうと、それを維持しようという強い力が働きます。権力や金力をもたない大多数の「弱い個人」は、否応なくこれに従わざるを得ません。(仲間はずれにされたら生きていけません)。

 システム維持のために、労働力を安定供給してもらうため、その個々人を管理しやすくするために、「一夫一婦制」はかなり有効に働きます。

 「子ども」、という将来の労働力を健全育成し、社会の安寧秩序を維持するための、家族はいわば“人質”です。

 何かあれば、自分だけならまだしも、「何よりも大切な」家族にまで連帯責任をとらされ、世間から冷たい目で見られ、後ろ指指される、そう思ったら、「ヘタなこと」はできないでしょう。

 

 絆(きずな)、という言葉がありますが、この言葉はもともと「絆(ほだ)し」と読み、意味としては、馬や牛などの家畜をつないでおく綱のことで、しがらみや呪縛、束縛を意味します。

 

 一夫一婦制や家族は、実は、社会の安定のための絆しだ、と気づかれないようにするために、愛情や好意によるつながりとしての「絆」のイメージを強く打ち出し、ヒトは、まんまと「喜んで」だまされているわけです。(人間は、さびしがりやですから)。

 

 こうしたイメージは、主に、メディアを通して広く“布教”され、クリスマスは、友人や恋人、家族の「絆」をいま一度確かめ合い、更新する一大イベントとして、(さらに、消費行動促進作用も相まって)定着しているのです。

 

 ヒトの、反社会的行動や、反逆的行動を、(あるいは、「人と積極的にかかわろうとしない」という、おとなしい非社会的行動さえも)、あらかじめ取り締まっておく。

 そのために、自分以外に大切なものをつくらせ、これを「ヒトジチ」とする。

 

 極端な話、といえば、極端な話です。

 

 けれども、社会という、すでにできあがっているシステムの中で生きていくとき、自分の強さと弱さを、そのルールとの間で、秤にかけて、どう感じるのか、そのとき自分はどうなるのかー。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう?

 

 それを少し、落ち着いて考えたいときに、『ヘンゼルとグレーテル』が、自分たちが迷子にならないために少しずつまいていった「パンくず」くらいの手がかりにはなるかもしれません。

 

 それも、結局は、動物たちに食べられてしまうという、心細いものではあるのですが。

 

 

 「アー、レー、クー、セーイ」。

 

 人間など、相手にもしない、深い森の中に響く、子ども捜しのボランティアの声。

 

 

 事実や、真実、あるいは、それにとても近いことがわかっていたとしても、人は、いろいろなものに突き動かされ、気づけば、自分の力ではどうしようもない場所へ、足を踏み入れてしまっていることもあります。

 

 深い森で、迷子になったのは、アレクセイ、ボリスとジェーニャ、だけではなさそうです。

 

 その姿と行く末は、さらに、いろいろなことを思わせ、考えさせてくれるのです。

 

 

                             《(5)へ つづく》