他人の星

déraciné

『他人の星』

 

 人は、自分のものなど何ひとつもたずに生まれてきて、他人の布団の上に寝かされ、そこへ、自分の居場所をつくっていかなければならないという問題を抱えている、と言ったのは、宮崎駿監督でした。(スタジオジブリ夢と狂気の王国』) 

 

 このブログの名前も、同じことを主題にしている、ある特撮作品からつけました。

 

 それは、ウルトラセブン第37話『盗まれたウルトラ・アイ』です。

 

 地球を破壊しようとするマゼラン星の使者としてやってきたマゼラン星の少女マヤは、ウルトラセブンことモロボシダンが変身できないよう、ウルトラ・アイを奪います。

 使命を終えたマヤは、母星へ、迎えに来るようメッセージを送り続けますが、彼女の母星は、初めから、彼女を見捨てており、迎えに来る気などありませんでした。

 ダンから事実を告げられたマヤは、ウルトラ・アイを返します。

 母星に裏切られた少女に、ダンは、「この星で生きよう」、と言いますが、彼女は、自ら命を絶ってしまいます。

 ダンは、「どうして他人の星ででも生きようとしなかったんだ」、とやり場のない気持ちを抱え、夜の街を去っていくのです。

 

 この『盗まれたウルトラ・アイ』にもともとつけられていたタイトルが、『他人の星』でした。

 

 

 本当はみんな、生まれたときには“よそもの”で、ひどく肩身の狭い思いで、おどおど、おずおずと成長していくのですが、やがて、いつの間にか、「この世界は俺のもの」、のような顔をして生きていくようになります。

 

 いつまでも、おどおど、おずおずでは、よけいものか、ひかげもののような一生を送らなければならないわけで、それではあんまりつらいし、不愉快なだけです。

 

 誰かから(それも、なるべくたくさんの人から)、「スゴイね」「エライね」とほめられてなんぼ、腕振りまくって、オーケストラの二つも三つも、自分の指揮一つで仕切ってる、くらいの気分で生きられなければ、面白くもなんともないのです。

 

 けれども、どんなに大きな顔をしても、しょせん、"よそもの"に変わりはないので、ちょっとした加減でのけものになるかも……という不安や心配はずっとついてまわり、(しかも、こうした、いくら考えても解決することのない根源的不安や自信のなさは、あまり自覚されることがありません)、よけいに、無理してでも、大きな顔をしようとしてしまうのです。

 

 カエルが、お腹が裂けるまで、腹を膨らませるみたいに。(カエルは、そんなアホなことはしませんが)

 

 この根源的不安を、念入りに払拭するために、たとえば、他人の頭に足をのせてみようとしたり、それがやりたくてもできない立場に追いやられている人は、そういう「偉そうな」人こそ、自分の代弁者であり、同志だ、と思い込もうとします。

 

 そんなことをしてまでも、人間というものは、自尊心というものを、最後の最後まで、失いたくないのかもしれません。自分に絶望したら、死ぬだけです。

 

 耐え難い屈辱と、絶望とを避けるためなら、人は、どんな真実な事実でも、曲げたり歪めたりできるのではないかと、私は思うのです。

 

 

 マゼラン星の少女、マヤも、M78星雲ウルトラの星のウルトラセブンも、異星人ゆえに、地球は『他人の星』ですが、宮崎駿監督の言うように、人間は、この星、この世界に「他人」として生まれてきて、自分のものではない布団に寝かされ、そこから何とかして、自分一人分の居場所くらい、この世界に確保しようと悪戦苦闘し、結果として、何かを得るのかもしれません。

 それは、何でしょう?

 とにかく、ああ、自分は何かをやり遂げた、努力と苦労に見合うだけのものを獲得した、と、満足する何か、です。

 それで満足するかというと、そうではなく、飽くことなく、さらに、いろいろなものを、もっと、もっとと求め続けます。

  求め、欲し、動くことで、人間の生は、成り立っているからです。

 排泄したい欲求を感じれば、トイレに行き、のどの渇きや空腹を感じれば、飲み物食べ物を摂取し、かゆいところをかこうとします。

 そういう生理的なレベルだけでなく、誰かと話したい、友だちや仲間になりたい、という心理社会的欲求を感じれば、それをかなえることができるような社会的行動をとろうとするでしょう。 

 

 

 けれども、生まれてきたときと同じく、死ぬときにもまた、何ももたずに死んでいくわけです。

 だからといって、“死を思え”、と言おうとしているのではありません。それは無理というものだと思います。死を思っていたら、死、あるからこその、限りある素晴らしい生を生きられるというのでしょうか。私には、そうは思えません。いつも死を思っていたら、こわくて、おそろしくて、生きることに支障が出てしまうと思います。

 

 

 

 私の家のまわりでは、高齢者一人暮らしが増え、何年か経つと、そこが空き家になり、やがて、取り壊し工事がはじまり、そのあとに、新しい大きな家か、アパートが建っていきます。

 

 いま、これを書いている最中も、となりは取り壊し工事の真っ最中で、人骨が裂け、砕かれるような音(聞いたことがあるわけではありませんが)を立てて、「家だったもの」、が崩れていきます。

 

 

 自分のもの、って、何だろう。

 ところで、生きるって、なんだっけ。

 人生って、なんだっけ。…………

 

 

 若いころには、答えのない問いに向かって、走っていってぶつかるくらいの勢いもあったかもしれません。(もうずいぶんむかしのことなので、忘れてしまいました)

 

 いまでは、たまたま生まれついた、この『他人の星』で、よそものとして生まれて、よそものになるまいとして、結局、よそもののまま死んでいくのかな、などと、ぼんやり思っています。