「将来の夢」
私が小さい頃、何になりたいと思っていたかというと、ファッションデザイナーでした。
どうしてか、といえば、父や母をモデルにして、服のデザインを考え、それを絵に描いてみるのが好きだったからです。
さらにいうと、それを、父や母が、とても喜んでくれたからでした。
もう少し成長して、小学校に上がる頃になると、今度は、バレリーナになりたい、と思うようになりました。
音楽が大好きだった私は、親戚のおばさんが『白鳥の湖』のメロディを歌うのに合わせて踊り出すほど、ノリのいい子でした。
ただ、音楽に合わせて踊るのが、楽しかったのです。
「バレエを習いたい」と言う私を、母は、バスで十五分ほど先にあるバレエ教室に、見学に連れて行ってくれました。
けれども、そこに、あまりにたくさんの子どもがいるのと、その場のぴりぴりした(あんまり楽しげではない)雰囲気に、すっかりげんなりしてしまい、「バレリーナになりたい」夢は、それっきりで途絶えました。
小さい頃から、何でも大抵、簡単にあきらめる子どもだったようです。
さて、つい先日、私の誕生日の夜に、『モンスター』という映画を借りて観ました。
自分の誕生日の夜に見るには、これがぴったりだ、と、何となく思ってのチョイスでした。
「与える愛」は、「求める愛」に負ける
この映画は、アメリカの連続殺人犯の実話をもとにしており、10代の頃から娼婦として生計を立ててきたリー(アイリーン)と、その友人かつ恋人のセルビー(実名はティリア)の関係を軸として描かれています。
幼い頃から、性的虐待を受け、安心できる家庭環境下で育つことのなかったリーは、
それでも、子どもの頃には、将来の夢を抱いていました。
美人になって、素晴らしい男性に見初められ、お金持ちになる。誰もが憧れ、尊敬するような、大スターになる………。
けれども、通常の教育をまともに受けて育つと、子どもは、人生、そう簡単なものではないらしい、と悟っていきます。
アイリーンは、この、通常の教育を受けるすらできずに育ちます。
「美人になりたい」。
顔の造作は、自分の力だけでは、いかんともしがたく、遺伝のなせる技なのですが、今の世の中、もし、お金が十分にあるのなら、整形も可能でしょう。
実際、“美”は、そこにあるだけで、金力も権力を引き寄せる魔力があります。
相当の社会的地位、お金持ちの素晴らしい男性も、黙っていたって、寄ってきてくれることでしょう。
「誰もが憧れるような、大スターになる」。
有名な親をもつ子どもが有名になる確率は、そうでない子どもの80倍にもなる、というアメリカの研究があります。
もし、何かで有名な親をもっているか、あるいは、各方面に顔の利く(コネ・ツテをもつ)親族、友人などがいるのなら、あるいは、“大スター”になる道も開けるかもしれません。
アイリーン(=リー)は、実際には、まだ年端もいかない少女のうちから売春をせざるを得なかった、あまりに酷い環境の中だからこそ、そうした“夢”をどこかで見ながら、やっとの思いで、生きてきたのです。
けれども、自分と人生に絶望し、もはやこれまで、せめて、残っている小銭で、ビールを一杯飲んでから、死に赴くことにしよう、と入ったゲイバーで、運命の出逢いをします。
それが、セルビーでした。
バーで飲んでいても、寄ってきてくれる相手もなく、疎外感を感じていたセルビーは、リーをみつけて、安いビールをおごろうとしますが、リーは最初、それを拒絶します。
救われないほど、愛情に飢えているものほど、最初は、差し伸べられた手を、冷たく、鋭く突っぱねます。
なぜなら、もし、その、自分へ向かって手をさしのべている相手が、自分の孤独の絶望的な救われなさをまったく理解できていないとしたらどうなるか、それをどこかでわかっているからでしょう。
誰かの愛情に満たされたことのないリーにとって、“愛”は、とても危険なものです。
もし、誰か、この傷だらけの、ありのままの自分を愛してくれる人がいたら。
子どものように、無防備になり、過去に受けた、ありとあらゆる傷口がぱっくり開いて、その人へ向かって、自分の中の、あらんかぎりのあたたかい血が、どっと、あふれるように流れ出してしまうことでしょう。
そうなったら、もう、止めることはできません。
最初から、この世界に見捨てられていたリーにとって、これが最初で最後の「自分の居場所」になるかもしれず、失ったら、一巻の終わりです。
差し出された手を失うまい、その愛を、自分のもとに引き留めておくために、何でもしようとしてしまうのです。
けれども、リーは、セルビーを受け入れ、セルビーの愛よりも、リーの愛の重さと深刻さが上回ってしまうのに、そう時間はかかりませんでした。
すっかり干上がり、ひびの入った大地に、いくら水が注がれても、その水で泉が満ちるには、相当な時間と水量を必要とします。
深く傷ついている相手に、不用意に、中途半端な気持ちで近づく行為は、残酷です。
「与える愛」は、大抵(必ずといっていいほど)、「求める愛」に負けるからです。
《(2)へ つづく》