『モンスター』(2)
「最小関心の原理」
恋愛関係では、自分たちの関係にあまり関心をもっていない方が、その関係のリーダーシップや、運命の鍵を握ってしまう、というのが、対人魅力の心理学でいう、「最小関心の原理」です。
関係への関心があまりない、ということは、関係の中で、自分の自由勝手気ままにふるまい、たとえばそれを、パートナーが許さないとしたら、別れればいい、というような、強気な態度で相手に接しているということです。
これに対して、関係への関心が強い(真剣度が強い)方は、関係の中で弱い立場におかれてしまい、相手を失いたくない、別れたくない、という気持ちが強いがゆえに、かなりの無理をしてでも、相手に尽くそうとします。
それをいいことに、関係への関心が薄い方は、なおのこと、よけいに勝手気ままにふるまうようになります。
自分を失うまいと必死になっている、相手の真剣さにつけこみ、甘えて、ときには、「へぇ~、そんなことするんだ?あたし、いなくなっちゃってもいいんだね?」みたいに“脅迫”し(たとえその気はなくとも)、利用するのです。
通常の恋愛関係では、互いの関係への関心のアンバランスがひどければ、関係は、いずれ破綻します。
無理は、続かないものですよね。
けれども、悲しいことに、自分たちの関係への真剣度や深刻度が、質、量ともに重ければ重いほど、場合によっては、自分の運命や生死さえも、相手の手に握られてしまうこともあるのです。
つまり、自分たちの関係への関心が薄い方は、自覚もないうちに、相手に「愛」を「与える」側に立ち、関係への関心が強い方は、いつまでも、どこまでも、相手に愛を「求める」側におかれるのです。
神様でもない、人間が「与える愛」など、たかが知れたものです。
(神様が、本当にいるかどうかは別として)。
どんなに正しく、愛を与えようとしても、愛という“水量”には限界があり、そのうち、飽くことなく愛を求めてくる相手に飽きたり、嫌気がさしたりすることもあるでしょう。
与える愛は、もともと底が浅いのです。
これに対して、「求める愛」は、飢餓感や渇望感がひどければひどいほど、“底なし”です。
ちょろちょろと、心細げに流れ出る水が、深刻な飢えや渇きを、十分満たすことなどできるでしょうか?
そういう意味で、「与える愛」は、大抵必ず、「求める愛」に圧倒され、負けるのです。
「愛は、惜しみなく奪う」
映画『モンスター』でいえば、セルビーが「与える愛」の側、リーが「求める愛」の側におかれているといえるでしょう。
最初、積極的に関係を求めたのはセルビーですが、彼女は、ケガのせいで就職に失敗し、両親の知り合いの家に預けられているとはいえ、親という、この世界で生きるためのつながりを、まるっきり失っているわけではありません。
この映画では、彼女と両親の関係は、あまりくわしく描かれてはいませんが、どこの家庭にも見られるような、親子の価値観の不一致や葛藤はあっても、セルビーは、相応の教育を受けて育っており、親の側も、娘が頼ってくれば助ける状況にあることがうかがえます。
そんなセルビーに対して、リーは、人生の早期から、心身の安心と安全を得られるような家庭や教育とは縁がなく、身内からの虐待や、周囲の迫害を受け、文字どおり、「体を張って」、身一つで生きてきたのです。
リーの言うように、セルビーが、基本的には人間を親切なものだと信じることができるのは、セルビーが、信ずるに足る人間のいる環境下で育ってきたからです。
リーが、基本的には、人間を信じたり、頼ったりしないのは、これまで彼女が接してきたのが、自分を傷つけたり利用したりする人間ばかりだったからです。
「男も女も嫌いだ。でも、あんたのことは好きだ」、と、リーは言います。
意図せず、セルビーは、リーの、人間と人間世界への信頼を取り戻し、つなぎなおす、最後の大きなチャンスのすべてを背負うことになったのです。
けれども、当然、セルビーには、まさか自分が、“アイリーン”という一人の人間の、そんなにも重く、真剣な思いを背負い込んだという自覚も、その覚悟もなかったことでしょう。
リーは、セルビーとの生活のために、娼婦をやめて堅気の仕事に就こうとします。
そう思ったきっかけは、セルビーと会うためのお金を稼ぐために乗った車の男に暴力を振るわれ、殺されかけて、防衛のために相手を殺してしまったことでした。
リーは、しばらく立ってから、セルビーにその事実を打ち明けますが、リーが、男を殺して逃げてきたのは、「死にたくなかった。セルビーに会いたかった」、その一心からだったのです。
誰にも大切にされることがなく、誰のことも大切に思ったことのない人間が、自分のことを大切だなどと思ったり、認識したりすることは難しいでしょう。
セルビーを愛した気持ち、その感情を感じた自分によって、リーは、はじめて、命が惜しい、死にたくないと思うことができたのかもしれません。
リーの孤独は、中途半端な治療では、治癒が望めないほど深刻なものですが、セルビーには、それがわかりませんでした。
仕方がないのです。人間には、自分が経験してきたことがすべてなのですから。
人の心を、本当に理解したいと思うのならば、「こんなとき、私なら~するのに」という、自分の経験による意見や考えは、役に立たないどころか、相手をひどく傷つける可能性があるということを、よく知っておいた方がいいのではないでしょうか。
人間の世界から、ずっと受け入れられずに生きてきたリーの深い孤独と、セルビーの、まるで思春期の反抗のような、ちょっとした挫折感や疎外感とでは、あまりに深刻さのレベルが違いました。
リーが求める命がけの愛と、それにまるで気がついていなかったセルビー。
二人が住む世界は、もともと異なり、それぞれに隔てられていたのに、出会ってしまい、つかの間の恋に落ちてしまったことが、のちに、いくつもの尊い命を巻き込んだ、大きな悲劇を引き起こすことになるのです。
《(3)へ つづく》