他人の星

déraciné

『モンスター』(3)

 

 むかし、大学卒業も間近だというのに、私がまったく就職活動をしないのを、当時お世話になっていた助手の先生から、心配されたことがありました。


 あなた、いったいどういうところなら、就職する気になるの、ときかれたので、私は、人とつきあわなくてすむところなら……と、うっかり本音を言ってしまいました。

 すると、その先生は言いました。


 「あなたね、人とつきあわなくてすむところなんて、この世にはないの。とにかく、女は、就職するか、結婚するか。生きていくには、それしかないの」

 

 正論でした。

 

 私は、それを聞いたとたん、吐き気がしてきました。

 やめてくれぇ、と、心の中で、叫んだのです。

 

 

 

生きていく術

 

 映画『モンスター』の中で、リーは、自分と暮らしてくれるというセルビーを養うため、(ひどく恐ろしい目に遭い、相手を殺してしまったこともあって)、「堅気」の仕事を探すことにします。

 

 ビジネスガールや、弁護士の秘書など、見た目には誰にでもできそうな(パソコンに向かってキーを打つだけ)仕事に就こうとしますが、学歴もなく、経歴も業績もスキルもない元娼婦の彼女は、馬鹿にされ、軽蔑されるだけで、相手にもされません。

 

 教育を受けたことのない彼女は、そういう仕事に就くには、どのような道筋で、どんな勉強をし、どんな資格やスキルが必要になるかさえも、知らなかったのです。

 

 一方で、セルビーは、リーに、娼婦をやめる必要はないと言い放ちます。

 普通に教育を受けてきたセルビーには、リーは、娼婦以外のどんな仕事にも就けないし、自分を養うため稼ぐにも、その方法しかないし、その方が楽でいいじゃない、と思ったのでしょう。

 

 愛する人が、危険な目に遭ったり、自分の体を傷つけたりしてほしくはない、と思うのが愛、なのかもしれません。

 

 けれども、人は、はっきりした基準も形もない、“愛”などという霞のようなものを食べて生きることはできません。

 

 愛があっても、お金がないのなら、死ぬだけです。

 (この世をうわべの華やかさで飾り、にぎわせている“お金”第一主義は、死と、それへの恐れの、過剰な抑圧から来ているのではないかと私は思っています。なぜなら、私自身も、お買い物が大好きだからです。)

 

 つまり、セルビーは、間違いなく、私たちが生きるこの世の住人であり、リーは、その術を知らず、とけこめない、別世界の住人なのです。

 

 実際、娼婦というリーの仕事は、彼女自身が言うように、強靱な精神力のいる仕事であり、そこらへんでキーをパチパチ打つだけの仕事など、誰にでもできる、楽で簡単な仕事にしか見えないのも当然でしょう。

 

 生きていく術としての、あらゆる仕事。

 その道筋を決めたのは、人間の寄り集まりであるところの社会です。

 

 医者、教員、弁護士など、偉そうで、すごそうに見える仕事(という価値観を植えつけるのも、教育の一環でしょう)ほど、そうなるための道筋は、厳密に決められています。

 あるいは、ビジネスガールになるにしても、いわゆる「常識」程度の教育と教養、経歴が求められるわけです。

 

 では、娼婦という仕事に就くには?

 

 道に立って、男の車に乗り、体を売る。

 そうすれば、もう、立派な“娼婦”です。

 

 

 セルビーをあずかっている家の女性ドナは、リーと対照的に、ごく普通の、一般的常識的な女性として描かれています。

 

 セルビーがゲイであり、娼婦と暮らしていることを知っても、それが一時の気の迷いであることを、(正論めいたことを口にする人に特徴的な、たっぷりの余裕と自信をもって)、セルビーに伝えます。

 

 社会の一般的な基準に照らして、ドナは、たとえば黒人などのように、自ら望まずしてスティグマ(烙印)を押されて生まれてきたもの(障害や病気をもって生まれてきたものも含まれるのでしょう)、人生の選択をすべきときに努力や注意を怠り、選択を誤ったもの(ホームレスやゲイ、娼婦であるリーなど)とにわけて、セルビーを説得します。

 

 

 人間の寄り集まりであるところの社会は、いったい、何を基準として、職業や仕事を価値付けしたのでしょうか。

 

 おそらくそれは、「きれい」と「きたない」という感覚ではないのだろうかと、私は思うのです。

 

 

 

                             《(4)へ つづく》