「長期間にわたって、道徳的な手本に基づいて行動するよう強いられている人は、この手本がみずからの欲動の動きの表現でない場合には、心理学的な意味では、みずからの力量を超えた生活をしていることになるのであり、客観的には偽善者と呼ばれてしかるべきなのである。それはその人がこのギャップを明確に認識しているかどうかにはかかわらないのである。そして現代の文化が、この種の偽善を異例なほど多く助長しているのは否定できないことである。現代文化はいわばこうした偽善に頼って構築されているのであり、人間が心理学的に適切な状態で生きる必要があるのだとしたら、社会の根底的な変革が必要とされていると言っても差し支えあるまい。」
S.フロイト『戦争と死に関する時評』
人間は、一人では生きていくことができないので、他人や人間の集合体であるところの社会に依存しなければなりません。
仲間はずれにされるということは、社会的な死であり、居場所をなくすということは、確実に、生命の危機となり得るからです。
「どうか、私を見捨てないでくれ、何でもいうことをきくから」
そんな哀願を、私たちは、生きている間、どのくらい繰り返すのでしょうか。
ただし、こんな惨めったらしい本心からの哀願は、何でも一人でできる、やっていけると信じて疑わない人間の自尊心をひどく傷つけるため、ほとんど自覚されることがありません。
“文化的な社会”というものは、すすんでいけばいくほど、人間に、高度に「清廉潔白」を要求します。
しかも、清く正しく美しくという価値観は、実は、絶対的に善いものであるという確かな根拠を、何ももっていないのです。
もっというと、人間社会の中で、これは正しい、善いことだ、といわれていることも、これは間違っている、悪いことだ、といわれていることも、いつでもどこでも誰にでも当てはまる絶対的な基準などではあり得ないのです。
その点において、善いとか正しいからといって、これを実行するようにしなさい、という命令は、さしたる効力をもっておらず、はじめから空虚であると言わざるを得ません。
例えば?
他人を批判したり、批難したりしてはいけません。
他人を差別したり、偏見をもったりしてはいけません。
他人を仲間はずれにしたり、いじめたりしてはいけません。
ものごとに積極的で、前向きでありなさい。
他人に優しく、笑顔で接しなさい。
何かつらいことがあっても、いつまでも泣いていてはいけません。
何かいやなことをされたからといって、いつまでも許さずにいてはいけません。
恨みや憎しみがどれほどつのっても、いついかなる場合にも、「人を殺してはいけません」。
「何でもいうことをきくから、見捨てないでくれ。私や、私の大切な人を、つらい目にあわせないでくれ」
そう哀願する弱い個人の頭に足をおいて、ぐりぐりと地に押しつけながら、人間の集合体であるところの社会や世間は、何の根拠もない“正しさ”に従うよう、強要するのです。
ですが、「強要されている」、「服従させられている」、という自覚はほとんどないと思います。
そんなことは自明の理であって、正しいことはいつでも正しいのであって、いまさら問うなんて馬鹿げているのであって、考える方がどうかしている、としか思われないのです。
つまり、そうした問いは、はじめからないことにされている。
臭いものにフタ、抑圧されているのです。
ですから、その「臭いもの」のフタが開きかけると、人々は大騒ぎして、これを封じ込め、なきものにしようとするのです。
『モンスター』の、リーのように。
ここで、したり顔でこんなことを書いている私にも、確実に、彼女の「Fxxk you!!」がとんでくることでしょう。
純粋さは、残酷さと表裏一体です。
セルビーは、その純粋さでもって、自分の“愛”という名のもとに、リーに要求します。
「私の面倒を見て」、「お金を稼いで」、「車を持ってきて」、そうしていつかは、「本当の人生」を生きる。
セルビーを失いたくない、けれども、堅気の仕事に就くこともできなかったリーは、追い詰められ、男から金と車を奪うために、殺人を繰り返すようになります。
リーにとって、セルビーこそが、「世界」であり、「社会」であり、最後の居場所だったのでしょう。
終盤、長年の友人のトムとの会話が印象的です。
生きるためには、それしか方法がなかった、それしか道がなかった。
セルビーの庇護者、ドナは、リーのような人間を、“選択を誤ったもの”と言いましたが、それでは、選択を誤らせたものはいったい何でしょうか。
不幸な境遇の中で生まれ育ったリーを助けてくれる人は、誰もいませんでした。
不幸はさらに不幸を呼び、リーの心と体をもてあそび、存分に傷つけ、道端に捨てたのです。
仕舞には、セルビーまでも、リーを裏切り、彼女はとうとう逮捕され、人でなしの、残忍な殺人犯として、葬り去られるのです。
《(6)へ つづく》