他人の星

déraciné

『モンスター』(6)

 

 「さて、目を個人から転じて、今日なおヨーロッパに荒れ狂っているこの大戦(註:第一次世界大戦)に向け、どれほどの野蛮、残忍、虚偽がいまや文化世界の中を横行しているか、一瞥してみて下さい。みなさんは、ほんの一にぎりの、良心を持たない野心家と誘惑者とが、まんまとこれらの悪霊を跋扈させることに成功したのであって、命令に従っている幾百万人の人々には罪はないとほんとうに信じておられるのですか。このような事態のもとでも、みなさんはなお、人間の心的素質は悪に無関係だと主張するだけの勇気がおありですか。」

                        フロイト精神分析入門』

 

「彼は選択を誤った」

 

 これは、かの有名な映画『インディー・ジョーンズ』の中で出てくる台詞だそうですね。

 (私のパートナーがいたくお気に入りの映画シリーズなのですが、私は、冒険活劇のたぐいの映画があまり好きではなく、彼からきいた話です)

 

 「選択を誤る」と、どうなるのでしょう?

 「選択を誤った」とは、どのような場合にいわれるのでしょうか?

 

 多くの場合、人生を左右するような、とても大事な選択なり判断をしなければならないところで、「正しいもの」を選ばず、「間違った」ものを選んだ、ということになるのでしょうか。

 では、「正しい選択」とは、何でしょう?

 おそらくは、選択をした者や、その身近な者を、成功や幸せ、繁栄に導くような選択をすることです。

 これに対して、「誤った選択」とは、何でしょうか?

 「正しい選択」の反対ですから、不幸や破滅、取り返しのつかない失敗、場合によっては“死”へとつながる道を選んでしまった場合のことでしょう。

 

 しかし、人生の選択や判断の難しさは、その道を指し示す矢印が、どんなに神々しく見えたとしても、あるいは、悪魔的におどろおどろしく見えたとしても、必ずしもそのとおりでないところにあります。

 

 わざわざおそろしげな、いばらの道を選び、成功した者もいます。

 あるいはまた、輝く光に導かれてその道を選んだのに、“こんなはずじゃなかった”と、がっくり膝をついて絶望する者もいます。

 

 そして、「選択を誤った」者は、他の人から軽蔑のまなざしで見られ、ことによると、リーのように、死刑、つまり、社会的・公に認められた「殺人」によって、この世から消されてしまうことさえあるのです。

 

 不幸や破滅、失敗、死。

 結果として、そうした事態へとつながることになった選択。

 

 ですが、こうした事態ー選択を誤ったとしか思えないような事態ーは、人間世界の中に、充ち満ちています。

 

 それらの人は、みな、不幸や破滅、失敗、命に関わる事態をのぞんでいたのでしょうか?

 

 私は、違うと思います。

 

 少なくとも、人は誰も、「幸福になりたい」と願い、どんなどん底にあっても、しぶとく希望を(それがたとえどんなに危険なものであっても)捨てようとしません。

 

 リーですら、そうでした。

 たった一つの希望、セルビーを愛し、必死で、生きる道を探ろうとしたのです。

 

 それに、通常の場合、人は人を、懸命に、躍起になって、「正しい」方向へと導こうとします。

 たとえば、親は、子どもが誤った道へと突き進んでしまうことがないよう、必死になるでしょう。

 

 偏見をもったり、差別をしてはいけません。

 人をいじめたり、おとしめたり、批難したりしてはいけません。

 

 そして何より、「人を殺してはいけません」。

 

 ですが、こうした試みは、人類の歴史始まって以来、おそらく、一度たりとも成功したことがないのです。

 

 なぜなのでしょう?

 

 

 

「何も知らない・誰も知らない」

 

 「心的活動の中には、一般に全く気づかれず、長いこと気づかれていない、それどころかおそらくは気づかれたことの決してないような過程や意向がある」(前掲書)とフロイトは、言います。

 

 “幸せになりたい”とは、誰しもが気づいている意識的・顕在的な、心からの願いでしょう。

 けれども、自分も他人も、あるいは、人間社会が全体として全く気づいていない心の動きや感情、衝動、欲望があるとしたら?

 

 それが、意識的・顕在的な願いや希望などよりも、ずっとずっと強い力をもっているとしたら?

 

 たとえば、何かのボタンを押したら、まったく意図していない、別の、予想だにしていなかった大きな力が、意図しない方向へ、事態を運んでいってしまった、というようなことでしょうか。

 

 仮に、目の前に、赤いボタンと青いボタンがあったとして、そのどちらかを「選んで」押さなければならなくなったとき、私たちの意識がおしえられることは、「赤いボタンの方が、良い結果を導きそうですよ」、というイメージだけなのです。

 

 “良いこと”って何?

 じゃあ、赤ではなくて、青を押したらどうなるの?

 この選択によって、他に何か、影響が出ることはないの?

 最終的には、どういうことになるの?

 

 それをおしえてくれるものは、何もありません。

 

 

 こわいのは、私たちが知ることができるのは、何を選ぶ「つもり」で何を選んだか、という、曖昧なイメージのようなラベルだけであって、実際に何を選んだのか、その根元にあるダイナミズムの微妙な変化が、のちのちどんな結果を引き起こすことになるかを知ることは、まったくといっていいほどできない、ということなのです。

 

 そのメカニズムを解いて、はじめからすべてをやりなおす、などということは、まったく現実的な話ではないでしょう。

 

 何万、何千、何億という糸の絡まったかたまりを、一本一本解き、はじめから正しい場所へと配置しようとしても、どだい無理な話です。

 

 地球が、生きものが、人間が生まれたときから、生きものの本質、人間の本質、そして、人類の経験してきたすべての歴史を、あらゆる場所と状況においてひもとき、それらをすべて、あるべき場所へ並べかえようとしても、結局は、また同じ、たくさんの誤りを犯すだけでしょう。

 

 もし、そんな作業に着手する人がいたら、その人はおそらく、作業半ばで発狂するか、自ら命を絶とうとするかもしれません。

 

 「『汝殺すなかれ』という掟が強調されているという事実が示していること、それはわたしたちが祖先の世代を無限にたどってゆけば殺人者たちにたどりつくこと、彼らの血が殺人欲に満たされていたこと、そしておそらくわたしたちの血も同じ欲望に満たされていることなのである」(フロイト『戦争と死に関する時評』)

 

 

 人間には、そうした「汚れた」衝動や欲望など、「まったくない」ことにしてこそ、文化的社会は回転します。

 

 文化的社会を秩序正しく回していくには、そこへ参加する人間ひとりひとりが、「殺人欲に満たされて」いることなど、あってはならないのです。

 

 人類は、これまでに、涙ぐましい「道徳的努力」を重ね、「きれい」で文化的、清潔で美しい社会に生きる「わたし」でありたい、さもなくば、この人生で、幸福になることが約束されないのだから、と思い込んでいるという自覚もなく思い込んで、みな、歯を食いしばって、懸命に生きているのです。

 

 だからこそ、そうした、汚れ、隠された、危険な何ものかを思い起こさせるようなものは、即刻、社会から排除され、抹殺されなければならないのです。

 

 「おまえは、選択を誤ったのだ」、という捨て台詞を、吐きかけられて………。

 

 

 

                             《(7)へ つづく》