他人の星

déraciné

『心と体と』(2)

私たちはなぜ死ぬのか?

 

 ところで、人は、なぜ、死ななければならないのでしょうか?

 

 結論からいえば、“性”をもっているから、なのです。

 

 地球上に、最初に生命が誕生してから20年の間生きていた生物は、すべて「1倍体生物」と呼ばれるもの(たとえば大腸菌など)で、性をもたず、自分単体で細胞分裂をして、無数に数を増やすことができたのです。

 その後登場する2倍体生物は、細胞分裂に制限があり、これを越えると“死ぬ”のですが、1倍体生物は、無制限に分裂でき、寿命というものがなく、自発的には“死なない”のです。(ただし、1倍体生物の細胞は、ひどく脆いので、ちょっとした傷を受けてもすぐに死んでしまいます)。

 

 2倍体生物は、1倍体生物の細胞のような脆弱さをおぎなうと同時に、異なる“性”によって子孫を増やすことで、より多様な組み合わせの遺伝子を生み出し、病気やウィルスに対しての弱さ・強さも個体によって異なるため、ほんのちょっと傷を受けたり、たった一つの病気やウィルスで、種全部が滅びてしまわないような仕組みを獲得しました。

 

 もともと、遺伝子というものは、たとえば紫外線を浴びるなど、ちょっとしたことで傷つきやすく、1倍体生物の場合、その傷によってすぐに死んでしまうため、傷や、遺伝子の異常が他の個体に伝えられる危険性が少ないのですが、2倍体生物の場合、性によって多様な遺伝子の組み合わせができる分、傷や異常もまたそのまま蓄えられ続けてしまい、結果的に、種を脆弱にしてしまう可能性もあります。

 

 そこで生まれたのが、自発的な“死”です。

 

 年をとって、たくさん傷ついた個体が、他の若い個体と交配することで、傷や異常を蓄え、子々孫々まで伝えてしまわないよう、2倍体生物は、ある程度傷つくと寿命が来て“死ぬ”のです。

 

 参考文献:別冊Newton「最前線の研究者が挑む生命に関する7大テーマ」

        2011年9月 ニュートンプレス

      田沼靖一 ヒトはどうして死ぬのかー死の遺伝子の謎 幻冬舎新書2010年

 

 

 要するに、ヒトでも、どんな生きものでも、性別をもつ生きものには必ず“死”があり、性別を獲得したことによって、ヒトは死ななければならなくなったのです。 

 

 自らの“死”とひきかえに“性”を得た私たちは、どうしても、その一生を、あらゆる意味で、“性”にふりまわされて生きていかざるを得ないのかもしれません。

 

 

“性”と“死”

 

 さて、話を、映画『心と体と』に戻します。

 

 過去、結婚に失敗し、体が不自由な中年男性エンドレと、美人で頭のいい、けれどもコミュニケーションが苦手なマーリアは、互いに、他者との関係、特に、この世でたった一人、唯一無二の人との間に、関係を構築していくことも決して得意ではないようです。

 

 「私たち、つき合ってるの」、という関係に入るまで、人は、孤独な日々にどのくらい耐えなければならないのでしょう?

 

 手を伸ばせば、すぐつかめるほどの距離にいるのに、届かないもどかしさ、頭の中で、ああしたらよかった、こうしたらよかった、なぜできなかったろう、どうして言えなかったんだろう、という空回りを、地球何十、いえ、何百周分、ひとりで繰り返さなければならないのでしょう?

 

 

 エンドレも、マーリアも、二人とも見る同じ鹿の夢の中で、寄り添ったり、遠く離れたりするように、おずおずと手を伸ばし合ったり、傷つきそうになって、手を引っ込めて、失望し、あとずさりしたりを繰り返します。

 

 まるでカード・ゲームでもしているように、相手の言葉や行動から相手の気持ちを推察しようとするのですが、決定的な証拠が得られず、思い切って飛び込んでいけないのです。

 

 二人とも、“相手と二人で、いちばんしたいこと”は同じなのに、思いどおりにそこへ落ちていかないことに、焦りと悲しみと絶望とがごちゃまぜになった感情で、疲れていきます。

 

 これもアスペルガー症の特徴ですが、他の多くの人と異なる五感の特性があり、特に、人からさわられることを苦手とするマーリアは、エンドレから腕をさわられたとき、思わずぱっとよけてしまいます。

 エンドレは、自分のひとり芝居だった、と思ってしまいます。

 

 マーリアが、エンドレとふれ合いたくて、懸命に、何かに触れ、触れられることに慣れようと、「訓練」を重ねていることも知らず、ある日、エンドレは、「自分たちはうまくいかない」、「友だちでいよう」、と告げます。

 

 マーリアは、無表情で、「はい」、と答えますが、その後、バスルームで、硝子の破片で手首を切り、自殺しようとします。

 

 どくどくと流れ出す、おびただしい血が、バスタブの水を赤く染めていきます。

 

 すると、マーリアの携帯(エンドレとのつながりが欲しくて買った)が鳴ります。

 

 手首から、大量の血を流しながら、マーリアは、バスタブから飛び出し、全速力で、部屋へかけていって、携帯に出ます。

 電話の向こうの、エンドレの、何か、奥歯にものが挟まったような挨拶の間も、マーリアの足もとには、みるみるうちに、血の池ができていきます。

 

 そのとき、ようやく、エンドレが言いました。

 

 「死ぬほど、あなたを愛しています」

 マーリアは、即座に応えます。

 「私もです」

 

 電話のあと、マーリアは、ぐるぐると、勢いよく、自分の手首にビニールとテープを巻き、出血を止めました。

 

 そうして、エンドレとマーリアは、やっと、“二人で一緒に、いちばんしたかったこと”をします。

 情事のあと、安らいで一緒に眠った二人は、互いに、鹿の夢を見なかったことを伝え合います。

 相手へ向かって、体をひらくことができた二人は、もう、以前の二人ではありません。

 安心して、相手に心をひらき、打ち解けて話すことができるようになったのです。

 

  

 よくある話、なのです。

 けれども、よくある話を、人間の営みのかなしさと滑稽さ、2本の糸を軸にして、複数の、たくさんある糸を丁寧に編み込んでいき、どこにもない、一枚の、美しい布に織り上げることは、とても難しいことなのではないかと思いました。

 

 

 死とひきかえに、“性”(その目的としては、種の繁栄があるわけですが)を得た私たちは、そこからくる快や悦びだけでなく、痛みやかなしみ、ときには、死んでしまいたくなるほどの絶望感もまた、一緒に引き受けなければならなくなったのでしょうか。

 

 

 “性”が得られなければ“死”を―。

 アンデルセンの『人魚姫』を思い出しました。

 人魚姫もまた、人間の王子に恋をし、結ばれたいと願い、美しい自分の声と引きかえに人間の足を得ますが、王子と結ばれなければ死んでしまうのです。

 姉たちからもらった短刀で王子の胸を殺せば人魚に戻れるのですが、姫はそうせず、船の上から身を投げました。(もっとも、この善行が報われて、姫は風の精になるのですが)

 

 愛する人と、「身も心も」結ばれないのなら、死んでしまった方がまし、ともとれます。

 

 それは、個人的な気持ちの問題なのでしょうか?

 それとも、はるかむかし、私たちの先祖が、死とひきかえに性を得た、その記憶が脳かどこかに深く刻まれていて、私たちを支配しているのでしょうか?

 

 

 

                                 《終わり》