他人の星

déraciné

人を死に至らしめるもの(2)

 

   “さあ と私の『魂』は言った

   私の『からだ』のために歌を書こう

   私たちはひとつのものだ

   もしも私が死んで 目には見えぬ姿となって地上に戻り

   あるいは遙か遠い未来に 別の天体の人となり

   ふたたび歌い始める時があれば

   いつも微笑みをたたえて歌い続け

   永遠にその歌を我がものとしておけるよう

   『魂』と『からだ』のために歌いつつ

   その歌に我が名をしるす”

 

                    ―ウォルト・ホイットマン 『草の葉』序詩

       (訳:「未解決事件File08JFK暗殺・後編」NHKスペシャル5月2日)

 

 番組の終盤、リー・ハーヴェイ・オズワルドが殺される直前の、彼の生きざまや状況を象徴するものとしてあげられていた詩です。

 

 

“貧困と孤独”

 

  番組を見終わった後、ケネディ大統領や、暗殺実行犯とされたオズワルドも含め、この事件に携わった(いわば用済みの)人たちが、なぜ殺されなければならなかったのだろうか、と、パートナーに聞きました。

 

 誰かを殺してまで、守らなければならないもの、守りたいものとは、何だろう、と思ったのです。

 

 私の素朴な疑問に、彼は応えました。

 「自分たちにとって利益になるもの」と。

 それは、お金のことか、と私は聞き返しました。

 「端的に言えばそうだろう」、と彼は言いました。

 

 要するに、自分たちの立場や地位、権力と金力、あらゆる利益となるものを生み出してくれるのが、CIAの一部急進的な人たち(影でオズワルドを利用したとされる人々)にとっての「アメリカ」なのであって、その「アメリカ」を守るためには、誰であろうと排除し、抹殺する。

 

 自分たちが信じる「絶対的正義」のためには、殺人をも辞さず、まして、流れ弾に当たるようにして、不幸にもその巻き添えとなって、名もなき人々が大勢犠牲になっても、“彼ら”のヒロイズムは、「それが絶対的正義だから」という理由によって正当化されて終わるのです。

 

 オズワルドの人生には、いつも貧困と孤独がつきまとっていたと言います。

 

 彼は、アメリカの帝国主義が、人々を、不平等と“貧困と孤独”に追いやっていることに失望し、共産主義国ソ連に理想を見出して移住するものの、やはりそこでも人々は、“貧困と孤独”に苦しんでおり、失望を深めた彼は、アメリカへ戻らざるを得ませんでした。

 

 

 オズワルドの妻、マリーナは、オズワルドが殺害された後、こう証言しました。

 

 「彼は、どこにいても幸せではありませんでした。彼が幸せになれるのは、月の世界だけでしょう」

 

 

 貧困と孤独は、切っても切れない関係にあります。

 貧困によって、社会や周囲との関係を絶たれ、社会的孤独が生じます。

 その孤独が、さらに貧困の状態を悪化させ、しまいにその人は、居場所も行き場も、生きる場所も失ってしまうのです。

 

 若く、希望に満ちたケネディ大統領の演説、それに熱狂する聴衆。

 

 その映像を見ていて、私は、かなしみのような、あきらめのような、うまく言葉にならない気持ちを感じました。

  何か、新しくて、見たことのない、美しい花が開くのを、今度こそ、この目で見ることができるかもしれない………。

 けれども、人類の歴史の中で、そんな希望はいつも、花開く前に、無残にも、踏みにじられてしまうのです。

 

 誰でしょうか。誰かから、こんなふうに言われているように感じました。

 

  “いいか、おまえたちは、決して幸福にはなれない。

  それは、ほかでもない、おまえたち自身が、いちばんよく知っているはずだ”、と。

 

 

 

行き過ぎた自信と安心への希求が、誰かを追い詰める

 

 人間は、生まれつき自信をもてない生きものであり、それは一生涯、呪いのように、いつも人生を支配します。(詳しくは、『精神分析入門』でフロイトが説明しています)

 自信が欲しい。ゆるぎない自信を得て、強くなりたい。

 おそらくは、誰しもが切実に望むのに、決してそうなれないのです。

 

 なぜなら、日常、私たちがなす、ほとんどすべての判断の基準の土台は、いつもぐらついているからです。

 

 「~しなければならない」を、私たちは、どこから教わり、どこから学んだのでしょう?

 

 生まれ落ちた社会の風習、慣習、育った地域や家庭、親、先生、友だち、上司、同僚?

 

 あるいは、「神」が私にそうするように言っているとすれば、かなり説得力があるかもしれません。

 何しろ、「神」ですから無敵です。

 

 私は、人間の生来の自信のなさと、それによる耐えがたい寄る辺なさが、神や宗教を生み出したのではないか、と思っています。

 

 

 要するに、いついかなる場合、いかなる状況においても、絶対に、必ずそうしなければならない、という判断基準はなく、社会生活を容易にするためのとりあえずの基準しかないのです。

 

 ところが、人間は、なんとしてでも、自信と、安心を得ようとがんばります。

 足もとがぐらついている状態では、明日へ立ち向かうことさえ難しくなり、誰かに何かを言ったり、行動したりして生き続けることなど、とてもできないでしょう。

 

 よく、“ブレないで生きていきたい”という言葉を理想として掲げる人がいますが、どうしてそんなことを言わなければならないかというと、わざわざそう言わなければならないほど、生きている人間はみな、最初からブレまくっているからです。

 

 それがあたりまえなのです。

 

 そういう人間の本質を無視して、自分や他人に“ブレのなさ”を押しつけすぎると、自分も、他人も苦しくなり、ひいては、社会全体もまた息苦しい、窮屈なものになるでしょう。

 

 そのなかでも、“貧困と孤独”のうちにある誰かが(こうした人たちは、いつも世界の崖っぷちに立たされているようなものです)、追い詰められて、どんどん死んでいって(殺されていって)しまうかもしれません。