他人の星

déraciné

人を死に至らしめるもの(3)

“呪われた”人

 

 「人間は、仲間の見えるところにいるのを好む群居動物であるだけでなく、仲間から認められたい、しかも好意的に認められたいという生得的な傾向をもっている。社会のすべての成員から、そっぽをむかれ、注意を払われないことほど、残忍な刑罰はない。部屋に入ったときだれも振り向かず、なにを言っても返事をされず、なにをしても相手にされず、会った人には知らん顔をされ、存在していないもののように振る舞われるならば、一種の怒りと無力な絶望がまもなくこみあげて来るだろう。それに比べれば、一番残酷な拷問のほうが救いであろう。」 ―ウィリアム・ジェームズ(アメリカの心理学者)

           出典:安田一郎『感情の心理学 脳と情動』青土社 1993年

              

 

 孫引きですみません。

 けれども、この説明が、人を死に至らしめる可能性が最もあるものとは何か、はっきりさせてくれていると私は思います。

 

 

 同書では、未開の地の部族信仰で、妖術や呪いにかけられた人は、その恐怖や絶望のために徐々に衰弱し、やがて死んでしまうという「ヴードゥー教の死」についての研究を紹介しています。

 

 「自分は呪いをかけられており、必ず死ぬ」と信じている者が、弱っていき、死にゆこうとするのを、どんなに栄養を与えたり治療を施したりしても、救うことはできなかったというのです。

 

 もちろん、毒を盛られたわけでも、誰かから危害を加えられたわけでもないのに、あたかも呪いそのものによって人が死んでしまう、という事実は、“文明や科学の発達した”社会の学者や科学者たちには、到底信じられません。 

 

 病は気から、とも言いますが………。

 

 「文明人の誇りにかけて」、この現象を認めるわけにいかなかった学者は、あくまでも、栄養失調や臓器の器質的な病変による死だと主張しましたが、仮に病が先にあったとしても、それが呪いをかけられたというストレスによって悪化した可能性も捨てきれず、“病が先か”、“呪いが先か”、結論ははっきりしていないのです。

 

 (…というより、科学や文明が妨げになって、はっきりさせられない、といったところでしょうか。ひとたび「高度な」文明を身につけると、むかしなじみのものでも毛嫌いしたり、生理的嫌悪感を抱くようになったりするのは、よくあることでしょう)。

 

 

 それでは、なぜ、“呪われた”人が、本当に、悪霊に取り憑かれたかのように、自然に弱って死んでしまうのでしょうか?

 

 それが、冒頭にあげた説明です。

 

 ヴードゥー教では、呪いにかけられた人は、いわば悪霊に殺される運命にある穢れた存在であるため、もはや、共同体の一員としては認められなくなります。

 他人はもちろんのこと、家族、親族からも見放され、いっさいのつながりを絶たれた孤独な人になるのです。

 

 こうした部族だけでなく、私たちは、他の多くの人たちがとっている生活スタイルや価値観を身につけ、家庭や学校、職場などでの社会活動をとおして、自分もまた社会の一員として存在を許され、認められていると感じることで、安心を得ているのです。

 

 みんなでともに暮らし、文化的な慣習や決まり、ルールを守ることで、何か、得体の知れない“悪しきもの”から守られていると感じるのは、未開の地の部族だけではないのです。

 

 

 “呪いをかけられた”人は、まるで存在していないものであるかのように扱われ、孤独のうちに、強い絶望と恐怖を感じなければならなくなります。

 

 その絶望と恐怖が、彼をして自ら栄養失調状態にさせ、臓器機能不全を引き起こし、存命を不可能にしてしまうのです。

 

 過度のストレス状態におかれると、誰しも、ふつうに飲んだり食べたり、眠ったりすることができず、もとは健康体だったとしても、ひどく衰弱して健康を害したり、場合によっては、自殺に追い込まれることがあることも、私たちは、よく知っています。

 

 

 

文明的な、あまりに文明的な「呪い」の言葉

 

 さて、今日、コロナ渦中にある社会で、気になるといえば、この言葉です。

 

 「大切な人の命を守るために」。

 

 

 東日本大震災後もそうでしたが、「非常時」にふさわしくない行動をとる人を“不謹慎だ”と言って批難し、叩くような空気が、いまはさらに濃厚になっているように感じます。

 

 ヴードゥー教でいえば、いったいどんな教えに皆が従っていれば共同体の一員として「守られる」のか、私は専門家ではないのでまったく知りません。

 

 ですが、少なくとも今は、「大切な人の命を守るために(望ましくない行動は慎むべし)」、というのが、皆が守るべき教えであり決まりであるかのようです。

 

 「大切な人の命を守るために」の、「大切な人」とは、誰でしょう?

 何のことなのでしょう?

  

 

 極端な感じ方かもしれません。

 けれども、私には、この言葉が、ある種の呪いの言葉のように聞こえるのです。

 

 自分が何か、不謹慎なことをやらかした際には、連帯責任を取らされる「まるで人質のような」人間がいることを、強く認識させられるということの他に、もう一つ、誰か、その命を守りたい、かけがえのない大切な人がいるという事実は、その人が、社会の一員としてつなぎとめられていることをも、意味するのではないでしょうか。

 

 

 共同体の一員であるかぎり、みな、決まりや教えを守り、謹んで行動するように、さもなくば、「ヴードゥー教の死」のように、まるで「存在していないもの」であるかのごとく、無視され、孤立し、やがて悪霊の餌食になるだろう、とでも? 

 

 ……まったく、文明もへったくれもありゃしない、と、正直、思っています。

 

 

 “病が先か、呪いが先か”、の話でいえば、災害や疫病といった「呪い」は、その社会にずっと潜在的に存在していた病理をあぶり出し、あらわにするだけなのです。

 

 

 「おばあさんは小さい少女を腕にだきあげました。こうして、二人は光とよろこびとにつつまれて、高く高くのぼってゆきました。そこにはもう、寒いことも、おなかのすくことも、こわいこともありません。」

                    アンデルセン『マッチ売りの少女』

 

 

 私たちは、ホイットマンの詩のように、「遙か未来、どこか他の天体に生まれ変わる」まで、幸せにはなれないのでしょうか。

 

 

                                 《終わり》